記事カテゴリ:

京都40 大原御幸(おはらごこう) 〜平家一門の最期〜

40-yoseki-0615p.jpg

 〈あらすじ〉 平家一門が全滅した後、生き残った建礼門院(平清盛の娘、徳子)は、大原の寂光院でわびしい生活を送っていた。そこへ義父の後白河上皇が、新しい権力者となった源頼朝に知られぬように、こっそり御幸(訪問)してきた。女院(建礼門院)は侍女と裏山に花摘みに出掛けていたが、対面を果たす。上皇に問われて、生きながら地獄をはじめ六道を見た体験、平家一門の最期、わが子・安徳天皇の入水などのありさまを涙ながらに語る。

     ◇

 この謡曲は平家物語の一門最期の語りである「灌頂(かんじょう)の巻」を脚色した作品。平家一門は長門国早鞆(はやとも)の浦(壇の浦)に追い詰められ滅亡した。その時、二位殿(清盛の妻)は、満7歳の孫の安徳天皇を抱き、「海の底にも別の都がございます」といって船から身を投げた。建礼門院も後に続いたが、源氏の兵に引き上げられてしまった。


 都に戻された女院は寂光院の尼僧となり、安徳天皇や平家一門の菩提を弔う生活を送った。小督(こごう)を熱愛した夫の高倉天皇は早世したが、女院はこの地で59歳の生涯を閉じた。


 謡曲の舞台である寂光院は、天台宗の尼寺で、案内書によると正式名は清香山玉泉寺寂光院。聖徳太子が父の菩提を弔うために建立し、太子の乳母である玉照姫が初代住職となった。建礼門院は何代目かの住職だという。


 寂光院へはバス停「大原」で下車して、徒歩20分ほど。かつては念仏行者の修行の地であり、「梢の嵐、猿の声。来る人まれな山里」(謡曲)だったが、今は三千院と並んで大原の人気エリアだ。シーズンには行楽客の列が絶えない。


 本堂は淀君の命で片桐且元が慶長年間に再興したという由緒ある建物だった。それが2000(平成12)年5月9日、放火によって全焼し、院内の本尊や建礼門院の像なども焼けた。犯人は未逮捕で時効が成立してしまった。5年後に本堂が元通りに忠実に再建され、本尊なども復元された。


 放火の難に遭ったとはいえ、院を取り巻く風情は物語当時のままだ。女院も毎日歩んだであろう石段は苔むしていて、歴史の重さが感じられた。謡曲に登場する「みぎわの池」も健在で、「みぎわの桜」や「岸の山吹」も季節には美しく咲く。裏山に「御庵室跡」の石柱が立ち、本堂東には「建礼門院大原西陵」の陵墓があった。


 5年ほど前、平家一門が沈んだ壇の浦を訪れた。海底には「別な都」でなく、対岸の門司までトンネルがあり、歩いて往復した。女院が余生を送った寂光の世界に浸り、それを懐かしく思い出した。

(京都編おわり)

(2013年6月15日号掲載)


=写真=再建された本堂


 
謡跡めぐり