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08 グループ・ド・モレーヌ 〜未知への挑戦求め 活動に憧れて入会〜

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 魚屋の2階での下宿暮らしは1年半後に直江津の社員寮に移ることで終わりました。そして、そろそろ地元に戻りたいと感じるようになったころ、長野電報局受付配達課への転勤が決まりました。1962(昭和37)年10月でした。


 転勤初日。職場に挨拶を済ませると、その日のうちにあらかじめ調べておいたツテで山岳会「グループ・ド・モレーヌ」の門をたたきました。


 入会希望を伝えると「本気でやる気があるか!」と聞かれましたから、「あります!」と即答。すると「ちょうど今夜集会があるから来い」とのこと。私は飛び上がりたいほどの気持ちで、仕事を終えると集会所に行きました。場所は権堂にあり、借りた土蔵が山岳会の事務所でした。職場から3分というのも幸いでした。


新しい道拓く興奮

 集まっていたのは20人くらい。当時21歳の私からすると、肝の据わったゴツイ面構えのオッサンのような山男たち。女性も5人ほどいました。


 私がこの山岳会を知ったのは、高田にいるときです。所属していた上越山岳会は、転勤にあたって退会しましたが、初めて登山というものを教えてくれた会の精神は、私の登山観を形成する上での一大要素となりました。


 それは「道のある山には行かない」という精神と実行でした。つまり、一般の登山道を歩くという山登りはほとんどしませんでした。常に未知への挑戦でした。雪山は道がないので、どこも挑戦の対象。雪のない時季は沢や谷を登る。登山用語で「バリエーションルート」といいます。


 登山の一番の魅力は初登頂や初登攀(とうはん)ですが、日本ではもはや初登頂はなく、初登攀も主要な岩壁から地方の中級山岳へと舞台は移り、地域研究という新たな価値観が生まれつつありました。


 山を見上げては、どこが登れそうかを検討し、誰も行ったことのない道を一歩ずつ拓いていくというのは、大げさかもしれませんが、未知の世界を求めた大航海時代の人類のDNAを感じるほどの興奮でした。


 妙高山、火打山、焼山、鉾ケ岳や海谷山塊の「頸城アルプス」と呼ばれる山々は低くても結構難しく、当時まだ初登攀ルートがたくさんありました。積雪期の妙高山東稜や能生川の奥にある権現岳や鉾ケ岳の登攀で貴重な体験を積みました。


 次の希望は岩登り

 「山と渓谷」「岳人」など、登山の専門誌を読んで、さらに望みを高くしていた私の次なる希望は岩登りでした。そのころ、グループ・ド・モレーヌの活躍は目覚ましく、強く憧れるようになったわけです。グループ・ド・モレーヌは略称でGDMと呼ばれていました。


 インターネットもない当時、我々アマチュア登山家が互いの動向や記録を知る方法は、まずは山岳会の会報でした。


 ここに初登攀の記録や岩登りの成果などを載せて発信すると、雑誌社の専門家が見ます。価値があると判断されると掲載されます。直接投稿もありますが、いずれにしろGDM会員の雄姿は雑誌の常連で、私にとってヒーローでした。上越山岳会は雪の技術レベルは高かったのですが、本格的な岩登りはしませんでした。その点、GDMの活動は岩があり雪もあり、さらに視野の広さも感じ、次の段階に進める予感がありました。

(2013年6月29日号掲載)


=写真=火打山から見た高谷池と妙高山