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10 母と戸隠山へ 〜「次は富士山」の約束 永遠の持ち越しに〜

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 母に反対されたからといって、念願だった岩登りを諦めるわけにはいきません。豊野の実家から自転車で出勤し、仕事が終わると物見の岩に直行して練習し、また自転車をこいで帰宅するとヘトヘト。風呂と飯だけでバタンキューという生活を続けていました。  


 岩登りは技術を習得するにつれて、それまで登れなかった場所を突破できるようになるのですから、面白くてしょうがない。安全のために基本からきちんと学んでいるのに、なぜそんなに心配するのだろうとさえ思っていましたから、親の心子知らずの典型でしょうね。


「私も連れて行け」

 山好きの兄も、まさか私の登山が岩登りに向かっているとは思っていなかったので、知った直後は心配しましたが、信頼できる山岳会で鍛えていることで安心。支援してくれるようになりました。しかし、母親を理屈で納得させるのは難しいものです。


 そうこうしているある日、母が「そんなに山がいいなら私も連れて行け」と言い出しました。自分に山の魅力を教えてくれた笠岳、初心者向けの飯縄山、あるいは北アルプスか、いろいろ迷った末、私は母を戸隠山に連れて行くことにしました。


 季節は秋。その日はガスが巻いて氷雨も降る悪天候で、私たち以外に登山者の姿はありませんでした。戸隠山は岩場など危険箇所もあり、簡単な山ではありません。両側が絶壁の「蟻(あり)の塔渡り」では、母の腰にザイルを結び、万が一に備えました。母は四つんばいになってそろそろと進みました。


 頂上に着いても眺望はなく、氷雨でびしょぬれになった当時のゴム製の雨具は内側が蒸れて不快です。母は「おっかなかった」と感想を漏らしました。その怖いルートを引き返すのは嫌だと言うので、帰路は連山を縦走して戸隠牧場へ下りました。距離が長くなり母の疲労は相当でしたが、よく頑張ったと思います。


 1日2日して母が私を呼びました。どきっとしましたが「おっかなくて、くたびれたが面白かった」「来年は富士山に連れて行って」と言うではありませんか。それから私の岩登りに反対することはなくなりました。


がんであっけなく

 母はそれ以上を口にしたわけではありませんが、達成感を得て、ザイルを結ぶことの安心を身をもって感じたのだと思います。


 その後、母は東京の姉の嫁ぎ先で正月を過ごし、腹痛を訴えて帰宅。受診したところ、がんが見つかったのですぐに手術をしたのですが、もう手の施しようがありませんでした。告知するかしないかで迷う時代でもなく、当人は手術で良くなったと信じたのもつかの間、5月にはあっけなく逝ってしまいました。約束した富士登山は、永遠に持ち越されることになりました。


 このころ、私の所属するグループ・ド・モレーヌは、大変な熱気に包まれていました。ちょうど私が長野に戻る前年の1961(昭和36)年、それぞれに先鋭的な登山を志向して実績を積んでいた県内24の山岳会が集まり、現在の長野県山岳協会の前身「長野県山岳連盟」を発足させていました。


 モレーヌも中心メンバーの一つとして、指導者の育成や遭難防止など様々な活動をするようになります。そして海外登山の計画が具体化。先輩たちは会合のたびにヒマラヤ登山の話題で盛り上がるようになったのです。

(2013年7月13日号掲載)


=写真=母と登った「蟻の塔渡り」付近