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11 ギャチュン・カン 〜夢のようなヒマラヤ 固めた「いつか自分も」〜

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 長野県山岳連盟の発足から3年目、母が亡くなったのと同じ1963(昭和38)年には、評議員会と総会でネパールヒマラヤの未踏峰「ギャチュン・カン」へ遠征隊を派遣することが決まりました。全日本山岳連盟の海外登山審議会もその計画を正式に決定。当時は外貨の持ち出しに制限があり、海外登山をするには全岳連の承認が必要でした。


 隊員は11人。グループ・ド・モレーヌからは3人が選ばれました。副隊長に吉沢一郎さん、マネージャーに町田和信さん、そして北村忠雄さんです。隊長は連盟の初代会長であり「大町山の会」所属の古原和美さん。当時、大町保健所長をされていた方です。


先輩たちの熱気

 駆け出しの私にとっては夢のようなヒマラヤについて、モレーヌの会合で先輩たちが話す内容はますます熱気を帯び、具体的になりました。私はそれを、ただ憧れの気持ちで聞いていました。日本中の登山家が我先にとヒマラヤを目指す時代の幕開けでもあり、私はそんな先輩方の背中を見て育った世代ということになります。


 ギャチュン・カンは、ネパールとチベットにまたがる迫力ある形相の山で標高は7922メートル。エベレストの西に位置しています。初登頂に挑戦することが決まったときの騒ぎは大変なものでした。県当局が全面的に応援、マスコミが連日報道し、莫大な遠征費用が多くの企業や一般からも寄せられ、信濃毎日新聞社は同行記者、信越放送はカメラマンを送りました。


 実行が64(昭和39)年だったので、東京オリンピック、東海道新幹線の開通と並べて称賛されるほどで、登山などしたこともない人でさえ、難しい山の名前を口にするような状況でした。私と同じ豊野町の横地康生さんという先輩と行き付けの飲み屋に行ったら、そこのおばさんまで「あんたたち、シベリアのナントカ・カンなんてすごいねえ」と話題にしていました。


 私たち山仲間は荷造りを手伝い、最新の登山用品の数々に目を見張りました。いよいよ登山隊が羽田から飛び立つ日の前日、「田村、見送りに行くぞ」という3人の先輩と一緒に羽田空港に向かいました。


 使ったのは先輩のボロ車。これが碓氷峠でパンクして夜中にタイヤ交換したのはいいのですが、帰りに吹雪の碓氷峠でまたパンク。スペアタイヤはもうありません。軽井沢駅まで車を押し、夜中に駅員さんを起こし頼み込んで車を止めさせてもらい、夜行列車で帰ったことは忘れられません。


忘れ難い見送り

 この年から観光目的の海外渡航が自由化されたばかりで、乗客の通路には赤いじゅうたんが敷かれていました。タラップから機内に吸い込まれた隊員たちに手を振っていたら、滑走路に向けて動き出した機体のジェット噴射が雨でたまっていた水を噴き上げ、私たちはびしょぬれになったのも忘れ難い思い出です。当時の空港はそんな有様でした。


 見送りのおかげで、漠然としていた「いつか海外の山へ、ヒマラヤへ」の思いが固まるのを感じました。誘ってくれた先輩には感謝しましたが、彼らの心中は複雑だったと思います。遠征隊入りを希望してかなわなかった先輩たちでしたから。

ギャチュン・カン初登頂は、チベット側へスリップした1人の隊員が行方不明になるという悲しい事故を起こしつつも成功。世界の登山史に輝かしい足跡を刻むことになりました。 (聞き書き・北原広子)

(2013年7月20日号掲載)


=写真=ベースキャンプから見たギャチュン・カン

(撮影:1964年ギャチュン・カン遠征隊)

 
田村宣紀(のぶよし)さん