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12 遺体収容 〜救助に行きビバーク 今も残る冷たい感触〜 

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 「ギャチュン・カン」の成功で、モレーヌの活動には高揚感がみなぎっていました。

 しかし、1966(昭和41)年5月2日、モレーヌにとって初めての遭難死亡事故が起きてしまったのです。ゴールデンウイークの春山合宿で、五竜岳からの縦走隊が、鹿島槍ケ岳の天狗尾根という難コースを下降中に1人がカクネ里へ滑落したのです。


 すでに第一線に立っていた私は後発隊として大町から入山し、翌日から鹿島槍ケ岳北壁を登攀(とうはん)する予定でした。キャンプのある「天狗の鼻」に到着した直後に聞かされたのは、「宮岡会員が滑落。生死は不明」でした。


 びっくりしていると、合宿総合リーダーの志川先輩から「これから2人で救助に行くぞ」と言われ、私は大急ぎで準備をしました。


「カクネ里」を下降

 カクネ里と呼ばれる大雪渓の途中に引っ掛かっている宮岡さんの姿を上から見つけ、一刻も早く助けなければと焦りましたが、二重遭難があってはなりません。私たちは急峻な岩と雪の壁を慎重に下降しました。下降は上りよりも難しい技術が要求されます。ザイルのセットを何回も繰り返し、ついに岩壁と雪渓の境目の近くまで下りましたが、ザイルは3メートルほど届きません。


 これ以上時間をかけたくない。意を決して飛び降りました。そして、宮岡さんのもとへ駆け寄りました。しかし、絶命は明らかでした。2人で遺体を引き揚げるのは無理。そのままにしたら雪崩で流される。ピッケルで止めてザイルで縛る措置だけすると、どうしたものか、私たちは顔を見合わせました。


 すると、下の方から2人連れがカクネ里の雪渓を登って来るではありませんか。「事故ですか」と話しかけられ、お互いの所属を紹介。東京の「山学同志会」のメンバーでした。当時、トップレベルの山岳会です。「大変ですね。手伝わせてください」と言われたときの心強さといったら、ありませんでした。


 一人は、有名な登山家の車義久さん。遺体をシートでくるみ、後で引き出すのに好都合な場所へ固定しなければなりません。雪渓のはるか下に岩を確認して、急斜面を降ろし、今度は100メートル以上を引き上げてようやく岩と雪の隙間に遺体を固定すると、日没になってしまいました。


 今夜は4人+遺体の5人でビバークです。一番若い私は遺体の横。あの冷たい感触は今も私の体に残っています。夜半から雨になり、全員びしょぬれでした。翌朝、東京の2人はアタックを諦めて帰り、私たちは前日下りた壁を、登り返さなければなりません。


疲労は極限に近く

 一面ガスがかかり何も見えない中を必死で登っていると、突然大きなザックがありました。宮岡さんのザックです。中からいくつかを遺品として取り出して背負いました。雨が雪に変わってきました。雪崩が定期的に襲ってきます。巻き込まれずに生還できたのは運がよかったとしか言いようがありません。


 やがて、昨日ザイルから飛び降りた地点まで登り、今度は岩と雪の壁の登攀です。なんとか尾根にたどり着いた時には疲労は極限に近く、最後は四つんばいでテントに倒れ込みました。その後も嵐はやまず、2日後にモレーヌの救援隊が到着するまで風雪が吹き荒れました。確か、全国で記録的な遭難があったゴールデンウイークでした。


 長野県中の山岳会の協力で、遺体を引き出したのは1週間後でした。悲しみにうなだれつつも、自分たちの事故は自分たちで片付けるのが基本。警察のお世話になったのは、検視だけでした。

(2013年7月27日号掲載)


=写真=鹿島槍ケ岳北壁とカクネ里