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151 熊坂長範 〜寝物語に信濃の盗賊伝説〜

 「昔々、善光寺門前に熊坂長範

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という大盗賊とその一味が住んでいた。金を運ぶ商人や武士の旅路を襲い、大金を稼いだ。長範は野尻湖の北方、越後との境の熊坂(現信濃町地籍)にある長範山に生まれたのさ。それで皆『くまさか・ちょうはん』と呼び、その名は都にも鳴り響いた...」


 長野市内の年寄りは以前、寝物語に因果応報や仏様の御利益話に飽きると盗賊の話をしてくれた。


 昔々とは、平安時代から鎌倉初期だ。熊坂は平家物語にも出てくる地名で、北国街道の抜け道だったから大勢の旅人が利用した。路銀を持つ旅人を襲えば確実に稼げる。悪さの味を覚えた長範は息子5人を手下に仲間を誘い、稼ぎのエリアを都への主要街道に広げ、300人を超す一味になった。


 善光寺は当時から極楽往生を願う参詣者でにぎわったから、金や荷、金持ちのうわさ話が集まった。そこで一味は手下を門前に常駐させて情報を集め、強奪計画を企てた。


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 「石川五右衛門に並ぶぐらいの大盗賊だったが、牛若丸にやっつけられてしまうのさ...」

 牛若丸といえば源義経のこと。弁慶を懲らしめ家来にした、おとぎ話のスターである。大スターに信濃の盗賊が絡むのだから、祖母の寝物語を聞く子どもの目も覚めてしまう。


 義経は源平合戦で活躍するが、兄の源頼朝に疎んじられ、東北の雄・平泉の藤原氏を頼り都落ちして衣川で悲劇的な終末を迎える。


 この都落ちを手助けしたのが金売り吉次(きちじ)という商人。金や砂金を商う豪商で数十人の配下を連れ、都と東北を往復していた。一行に追手を逃れた義経・弁慶主従が偽名を使って加わったという次第に続き、その吉次を長範が襲う--と話は展開する。


 門前に生まれ育った人なら誰でも知っていた伝説・説話だが、近ごろの人は「へえ、まじっすか。よくできたフィクションですね」と、いい加減なテレビドラマのような扱いだ。


 年寄りが語り継いだ長範伝説は真偽の狭間にある。信濃町では長範屋敷跡が史跡となっている。


 この伝説を語る謡曲「烏帽子折(えぼしおり)」は、門前の旧家の女性が女学校時代に学んだ仕舞(=能)の名曲だ。


 その中で、一味は長範親子6人を含む総勢300人余で大宴会を催し、善光寺南大門(正門)に住む参謀・居計右馬尉(いばからいのうまのじょう)はじめ多彩な盗人を紹介。応えて長範は「盗みは元手いらずの良き商い」と我が子5人の才覚を披露する。さらに義経との対決場面では、6尺3寸(2メートル余)の長刀(なぎなた)を水車のように振り回すが、天狗のように舞う牛若に敗れ、長範真っ二つに割られ朝の露と消えにけり--という次第だ。


 長範も吉次の名も平家物語や平治物語に出てきて、実在もうかがわせるが荒唐無稽だ。史実や実話が後世になってどんどん脚色され、尾ひれが付いてとんでもないストーリーが展開する。


 謡曲や能は難しいものとの誤解があるが、公家・貴族階級と比べ無学、無粋な武士に善悪や生きる美学を教えるには格好の手段だった。庶民には分かりやすい説話で勧善懲悪を教え込んだ。悪者の顛末から、禁制(法律や社会規範)を学べるようになっている。

(2013年6月29日号掲載)


=写真=謡曲本「烏帽子折」の挿絵から構成

 
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