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13 結婚 〜「家庭というBC得て」 自立した妻に感謝〜

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 遭難事故は原因をきっちり検証して教訓にすることが、亡くなった方への弔いです。私たちも真剣に議論しました。そして教えられたのは、地道な錬成を継続することの大切さです。


 これは、岩登りのような特殊な技術を要する登山でなくても同じです。例えば、若いころにかなりの山を経験して自信をつけ、仕事の都合などで中断し、定年後に再開する場合は注意した方がいいですね。過信に陥りやすいからです。私に多少誇れる点があるとすれば、50年以上も山から離れることなく継続していることでしょうか。


初対面からアプローチ

 鹿島槍ケ岳で遭難した遺体を収容して10日ほど後、私は雪焼けで真っ黒になった顔で結婚式を挙げました。相手は竹前きみ子です。当時の逓信病院に勤務する看護師で、系列の職場ですから何かと会う機会がありました。


 彼女の方はそうでもなかったようですが、私は初対面から、結婚するならこの人と感じてアプローチしました。仲間の中には、奥さんの反対で山を諦めた人もいます。あるいは、家族にひた隠しというツワモノまでいますが、私の考えは「ベースキャンプ(BC)」がしっかりしているからこそ、安心して高みを目指せるのが登山。家族の信頼関係が揺らいでいては気持ちに影響しますし、事故でもあったら問題が一気に表面化するのも心配です。


 その点、妻は「私は山を知らないから、何が危険かも分からない。自分が分からないことで相手の足を引っ張りたくない」という、ある意味で合理的な考えの持ち主です。周囲から「危ないよ」「心配ではないのか」と聞かれても、一貫した態度でした。一人残されたとしても生活力があるのは、私にとっても安心材料でした。危険を伴う趣味を続けるには、自立した配偶者を持つことが必要条件かもしれませんね。


 とはいっても、子育ての間はだいぶ苦労をかけました。妻は今でも当時のことを思い出すと涙が出ると言います。次女が生まれて間もなく、「西アジア登山探検隊」の隊長として2カ月留守にしたときは、出発前に「どうするの、これ」と赤ん坊を差し出され、さすがに胸が痛みました。幸い妻は、家族や友人の協力もあって、ずっと「職業婦人」であり続け、今も仕事を続けています。


 仲間が実行委員会をつくってくれ、700円の会費制で行った手づくりの結婚式は温かい雰囲気でした。


新居で仲間と酒盛り

 くじ運は良くないのに、なぜか柳町の県営住宅の補充の抽選に当たり、4畳半2間の新婚生活に。座ったままで部屋の隅々に手が届くサイズの新居に、夜な夜な仲間が訪ねてきては酒盛りです。妻が夜勤の日は人数も膨らみ、楽しい時代ではありましたが、さすがに狭さには閉口しました。


 しばらくして、妻の妊娠に伴い配慮をいただいて、棟違い1階の広い部屋に移ることができました。当時、たいていの家は鍵を掛けておらず、私の家に遊びにきた仲間が間違えてよそ宅に入り、冷蔵庫のビールを飲んでしまったなんてこともありました。


 家庭というベースキャンプを得て、剣岳や北穂高滝谷など難関で知られる岩壁に挑んでは踏破。結婚の翌年、1967(昭和42)年には、ペルー・アンデス遠征隊員に選ばれ、初の海外登山のチャンスが巡ってきました。

(聞き書き・北原広子)

(2013年8月3日号掲載)


=写真=妻きみ子と子どもたち

 
田村宣紀(のぶよし)さん