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14 海外遠征断念 〜休暇を認められず 見つめ直した登山観〜

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 海外登山の夢を膨らませていた私は1967(昭和42)年、「ペルー・アンデス遠征隊」の隊員に選ばれました。アンデスになったのは、ギャチュン・カン登頂の翌1965年、中国との国境問題などが絡んだせいか、ネパール外務省がヒマラヤ登山を禁止したからです。これにより、世界中の登山家が南米のアンデス山脈に向かうようになりました。


 この隊のリードオフマンはグループ・ド・モレーヌの横地康生さんです。私の任務はマネジャーで、チケットの手配やお金の管理など多くの業務があります。念願かなった喜びの中で準備を進めていたところ、職場の上司から休暇は認めないと言い渡されました。同時に、会社は違いますが、隊長の先輩も休暇がとれないことになりました。


アマチュアを再確認

 ほかに理由があったのかどうか分からないが、私たちが提出していた休暇届に対し、社内決定がなされる前に隊員名簿が新聞で報道されたことがけしからん、という説明でした。


 私はその場に座り込みそうなほどのショックを受け、大変悩みました。チャンスはこれっきりかもしれない。どうしても行きたい。電電公社(当時)を辞めれば行くことができる。「辞めます」という言葉が喉まで来たのを、かろうじてのみ込みました。


 この試練で、私は自分の登山観を見つめ直すことになりました。それは、グループ・ド・モレーヌの原点として会則にも明文化されている「山を通して豊かな人間形成を目指す」というものです。


 「高い所に行くなら鳥にかなわない。岩登りなら猿の方が上手。やぶこぎなら熊の方がすごい。我々は人間で、登山は文化だ」が口ぐせの吉沢一郎先輩の言葉が頭をよぎりました。


 私はこの考えに深く共感し、大きな影響を受けてきました。人間形成のために、そして文化としての登山を楽しむには、山岳ガイドなどのプロになるよりも、仕事を持ちながらのアマチュア登山家でいたい。これを再確認して潔く諦めることにしたわけです。現在、私は自分たちの山岳会を主宰していますが、登山観はずっと変わっていません。


 隊長とマネジャーという実務を担う隊員2人が抜けたことで、代替隊員の人選、チケットの予約取り消しや業務の引き継ぎなど、関係者の間では大騒ぎになりました。私は側面から準備を手伝い、横浜港へ見送りに行きました。


 確か「ブラジル丸」だったと思います。窮屈そうな船底の船室まで入って激励しました。何百本ものリボンがはためく中、私はトイレットペーパー。ひと巻き55メートルが一番長く旅立つ友と結ばれていました。タグボートに押されてゆっくり遠ざかる大きな船体を見つめながら、正直「チクショー」と思いましたね。


仕事との両立

 振り返ると、当時はまだ公社の方も長期休暇の態勢が整っていなかったのだと思います。その後、私は休みの取り方を工夫するようになり、ひそかに「休暇の先生」と呼ばれるようになりました。全国約32万人の公社員の中には山好きも相当数おり、休暇を取る手段として「長野の田村さんはOKだった」と、つまり前例として引き合いに出されたからです。


 海外登山のためには、月単位の休暇をいただくことになります。日頃の仕事で後ろ指を指されることのないよう、真面目に勤めたのはもちろんです。とはいえ、ここまで仕事と趣味を両立できる環境があったことには感謝しています。

(聞き書き・北原広子)

(2013年8月10日号掲載)


=写真=アンデス山脈のサンタクルス・ノルテ(5829メートル) =横地康生さん撮影