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15 チーフ・リーダー 〜「地域研究」を実践 西アジアに引かれる〜

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 海外遠征を諦めた翌年の1968(昭和43)年、私はグループ・ド・モレーヌのチーフ・リーダーに就任しました。組織のトップは会長ですが、運営と実践をけん引する責任の重さに身が引き締まる思いでした。


 メンバーの命を預かるといっても過言でないのがリーダーの役目。皆の意見は尊重しつつ、迎合的になり過ぎない冷静な判断力と決断力、個々の力を引き出しながらまとめる能力が必要とされる立場です。


 このころのモレーヌは、国内の大岩壁がほとんど登り尽くされた中で、これからの活動の方向性を見いだす必要性が求められていました。私たちは話し合いを重ね、「地域研究」を打ち出しました。


身近な未踏に集中

 有名な所、大きな所を狙うのではなく、身近で小さな山を見直そうと考え、その観点から地域の山を見ると、高さはなくても極めて険しく、未踏の沢や稜の宝庫です。私たちは特に戸隠山群、妙高山群、海谷山塊に集中することに決めました。


 未踏ですから面白い上に、踏破すると記録になり励みになります。戸隠山群の困難な稜の初登攀記録は全てモレーヌが樹立。このような地域研究の実践はほかの山岳会にも波及し、当時の登山界で一世を風靡しました。


 海外登山に新しい動きが出たのもこの時期でした。印象に残っているのは、農業者グループによる「長野県山岳協会パタゴニア・アンデス登山隊」です。


 誰にとっても憧れのヒマラヤの登山の適期は5月か10月。ちょうど農繁期で、実力があっても参加は不可能です。そこで季節が逆の南米に目を付け、オルギンス峰や難峰のパイネ・グランデ・ノルテ初登頂の快挙を成し遂げました。隊長は真島の専業農家・竹内芳政先輩で、下山後は現地の農家を視察し、交流したそうです。


 内外を問わず、自分たちに合った登山が模索される時代に入り、私の海外熱もまた高まりました。ありがたいことに職場の雰囲気は67年のペルー・アンデス登山隊への断念時と比べると長期休暇への理解が進んでいる気配を感じました。私の山への情熱が半端でなかったことが伝わり、職場の空気まで熱くなったのでしょう。


深田久弥さんに相談

 行き先をどこにするか。ヒマラヤは膨大な費用がかかって無理。それに私の好みは、高いとか有名というよりも、人が行かない所へ行く探検的登山です。世界地図を見詰めて興味を引かれたのは、西アジアでした。


 ところが、当時は資料がありませんし、西アジアの登山に価値があるかどうかも心もとない。そこで、深田久弥さんに相談したいと思いました。65年発刊の『日本百名山』で大ブームを巻き起こした登山家で作家です。日本山岳会の副会長でもありました。面識はないものの、連絡すると快く応じてくださいました。


 深田さんはヒマラヤはもとより世界の山々について非常に研究熱心な方で、世田谷の自宅の庭に、四方を本に囲まれた「九山山房」という書斎を持っていました。西アジアの山について調べ、資料を整えてくださり「君たちはいい所へ目を付けたね」と評価してくれました。深田さんも探検登山がお好きで、話が弾みました。


 勇気付けられた私たちは、トルコとイランの山々を目指し、10人で「西アジア登山探検隊」を組みました。深田さんは、私たちの出発直前の71年3月21日、山梨県の茅ケ岳登山中に脳卒中で急逝されました。深田さんからの手紙やはがきは私の手元に残っています。

(2013年8月24日号掲載)


=写真=未踏の魅力 能生川源流イカズ谷の大ゴルジュ帯を探る


 
田村宣紀(のぶよし)さん