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039 立原 道造 ~高原の恋は短くも切なく~

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 夢みたものは......

      立原道造(たちはらみちぞう)


夢みたものは ひとつの幸福

ねがつたものは ひとつの愛

山なみのあちらにも しづかな村がある

明るい日曜日の 青い空がある


      ◇


 そよ風が高原を吹き抜けていく。空気はカラッと乾き、澄んだ空がまるで巨大な窓のように開け放されている。


 浅間山(2568メートル)の麓、草原と木立が山裾に向かって波打つように広がる。


 詩人の立原道造は軽井沢の中でも、とりわけここ追分周辺の風景や人情に心引かれた。


 明るくておおらか、それでいてどこか哀愁の忍び寄る雰囲気を、感じ取っていたのではないだろうか。それは、詩人としての立原の感性そのものでもあった。


 1939(昭和14)年3月29日、わずか25歳で死去する。あとには第3詩集『優しき歌』の草稿が、ほぼ仕上がった状態で残された。


 いずれも14行詩、全部で11編。その中に「夢みたものは......」がある。冒頭の4行を受け、こう続く。


日傘をさした 田舎の娘らが

着かざつて 唄(うた)をうたつてゐる

大きなまるい輪をかいて

田舎の娘らが 踊ををどつてゐる


 詠み込まれた詩句が代わる代わるリズムを刻む。涼しげに風を感じさせる。


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 東京生まれの立原は34(昭和9)年、東大工学部建築科に入学。7月には追分を訪れ、旧追分宿の油屋を宿に一夏を過ごした。初めての村暮らしがすっかり気に入る。


 順調に卒業し、銀座数寄屋橋の石本建築事務所に就職。ところが肋膜(ろくまく)炎を患ってしまう。静養がてらの滞在先が、やはり追分だった。


 翌38(昭和13)年、24歳の春。同じ建築事務所で働く19歳のタイピスト、水戸部アサイを愛するようになった。


 6月の日曜日、追分への日帰り旅行に誘う。当時の国鉄信越線、現在のしなの鉄道信濃追分駅近く、草むらの傍らでプロポーズした。

2人の間でどんな会話が交わされたかは分からない。そのころの体験を下敷きにした遺稿集『優しき歌』の一編一編が純度の高い愛の世界を今日に伝える。


告げて うたつてゐるのは

青い翼の一羽の小鳥

低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛

ねがつたものは ひとつの幸福

それらはすべてここに ある と


 「夢みたものは......」の後半6行だ。

 夢みた愛の前に"不治の病"だった肺結核が立ちはだかる。半年後、立原は旅先の長崎で激しく喀血(かっけつ)した。既に手遅れの状況のまま東京の療養所に入る。


 水戸部アサイは、付きっきりで献身的に看護した。わずかな月日である。それだけが2人に許された愛のスタイルであった。


 〔14行詩〕西欧の叙情詩の一形式。ソネット。4・4・3・3ないし4・4・4・2の14行で構成。日本でも蒲原有明らが明治期の近代詩から試みている。

(2013年8月3日号掲載)


=写真=旧追分宿の家並み

 
愛と感動の信濃路詩紀行