田に水をはり蓼科のうつる田になる
水をはると水田はうつくしほととぎす
右に左に田へ行く水の音たてゝ行く
荻原井泉水(せいせんすい)
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広々としているせいか、佐久平では道を間違えやすい。「五郎兵衛新田」の名で知られる米どころへも、何度か踏み迷った。
かつての北佐久郡浅科村、今は佐久市の西北に位置する。国道142号沿いの道の駅「ほっとぱーく浅科」に立ち寄ると、信州佐久コシヒカリ「五郎兵衛米」がお土産用に並んでいた。
周りは一面、緑も鮮やかな水田が広がる。南に蓼科山(2530メートル)や双子山(2224メートル)の北八ケ岳を背負い、北に浅間山(2568メートル)を見据える盆地だ。
ここ上原(かみはら)、中原、下原と続く一帯が、五郎兵衛新田だった。その中を一筋の用水が貫き、区画の整った田一枚一枚に水を潤している。五郎兵衛用水である。ザワザワと水音も軽やかな流れを眺めていると、自由律俳句の第一人者、荻原井泉水の一句一句が、まざまざ鮮烈によみがえってくる。

春、田植えに備えて水を張れば、冬の間眠っていた田が目覚め、水面に蓼科山を映し出す。そして刻一刻、美しく装いを新たにするにつれ、夏の渡り鳥ホトトギスが勢いも鋭く、鳴き交わすようになる。
さらに夏の盛り、たくましく稲が成長を続ける田に向かって、用水の水が小躍りするかのように流れていく。
1954(昭和29)年に訪れて詠んだ井泉水の句には、実りの秋へ躍動する命の営みが、水に託された感動的な言葉に集約されている。
かつては「矢島原」と呼ばれた不毛の地だった。ここに目を付けたのが、上州(群馬県)羽沢生まれの市川五郎兵衛真親(さねちか)だ。
徳川家康の天下が確立し、戦乱の世が治まったころである。1626(寛永3)年、小諸藩から開発の許可を得た。
草原にすぎない荒れ地に水を引き入れ、田んぼにしようとする大事業である。
ところが、東を流れる千曲川は、水量が豊かであっても、低すぎて水源としては使えない。西側と北側を流れる布施川も、事情は同じだ。

そうであれば...。五郎兵衛は山中に水源を求め、歩き回る。標高約1900メートル、蓼科山の頂上を間近にし、ようやく岩の裂け目から湧き出る水を見つけた。これを導水路で岩下川に落とし、湯沢川との合流点で取り入れる。そこから延々約20キロ、山腹を削り、トンネルを掘り、川の上を掛け樋(どい)で通す。知恵と工夫、汗と涙で完成させたのが五郎兵衛用水だ。
低地には盛り土をし、そこに水路を設けた。このいわゆる「つきせぎ」は1キロに及ぶ。はるばるたどり着いた水が、手入れの行き届いたつきせぎを、あたかも命あるかのように生き生きと流れていた。
〔荻原井泉水〕大正・昭和の俳人。松尾芭蕉に傾倒しながらも、5・7・5の定型にとらわれない自由律俳句を提唱。句誌「層雲」を主宰し、門下に尾崎放哉(ほうさい)、種田山頭火らがいた。父親は北安曇郡池田町の出身。
(2013年8月24日号掲載)
=写真1=水源地を祭る碑
=写真2=青田の中を貫く「つきせぎ」