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73 "老いさらばう"と"老いてなお"(上)

 誰しもが年を取る。足腰が立たなくなる。やがて終の日がやってくる。終焉、最期、今際、臨終...などとも。いかなる権力者であろうが、高位高官に就こうが、いかに金を積もうがいささかの例外もなく、誰しもが終の日を迎えることになる。


 さまざまなる死


 ひとたびこの世に生を受けて滅せぬもののあるべきか(織田信長)


 信長に言われなくとも「お前はどう思うか」と問われれば「ハイッ、そのとおりです」と答えるしかないのである。


 死の迎え方はそれぞれ、まちまちだ。安らかに眠るようにもあれば、悶絶という話も聞く。家族に見守られてもあれば、ひとり身で放置されたままもある。同じ突然死でも、車に轢かれる。刃物で斬られる、刺される。滑落もあれば、圧死もある。信長は焼き討ちに遭って焼死した。


 驚くことに○○死、○○殺のことばを集めてみると、200をはるかに超す数字なのである。さまざまな死があることを教えられる。


 天の配剤

 ところで死は、年齢順、生まれ順でやってくるのではない。もし生まれ順だとすれば、大変な事態が起きそうだ。あの人が亡くなった。サァ、次は俺の番だ。飯も喉を通らない。静かな諦念などあろうはずもなく...。


 いや、幼少時から生まれ順に死ぬのだと教えられ育てば、仕方ないさ、誰にもやってくる順序なのだからと、という程度に落ち着くのか。それとも人類共通のまことに公平な社会通念として受け止められるようになるのか。


 愚にも付かぬことを書き連ねたが、現実、目の前にある"死ぬこと"が年齢順でないことは、天の配剤、神の恩寵とでもいうべきものかと思う。あるいは100歳までもと、ほのかな希望さえ、抱かせてもらえるのだから。


 「老いさらばう」ということ


 「老いさらばう」を辞書をひくと「年をとってよぼよぼになる/すっかり年寄りになってしまう」などとある。「老い屈まる」は、年をとって腰がかがむ、だ。似たようなことばを拾ってみる。老人、老年、年寄り、シニア世代、老残(老いぼれて生き残ること。「老残の身をさらす」などと使う)、老臭、老醜...もうやめよう。耳を塞ぎたくなるからだ。


 年寄りを「爺・婆」と呼ぶ言い方がある。爺はじい、じじ、じじい、じっさ、くそ爺、強欲爺、などとも。婆はばあ、ばば、ばばあ、ばばさ、くそ婆、鬼婆などとも。それがおを付けて、おじじ・おじいちゃん、おばば・おばあちゃんとすれば、なんと優しくかわいく聞こえる(響く)ことか。


 古語になるが、おきな(翁)、おうな(老女・嫗)、おきなさぶ(老人らしく振る舞う)となると、たちまち鶴亀と尾上(おのえ)の松が登場し、高砂の世界が広がる。


 老成、老いてなお...

 「矍鑠(かくしゃく)」という難しいことばがある。年老いても丈夫で元気な様を言い、「矍鑠たる老人/高齢ながら矍鑠としている」などと使う。老成、熟年、老熟、老練、実年、豊齢、熟練、熟達、円熟...などがそんな雰囲気を漂わせていると言えようか。「矍鑠たる人生、老いてますます盛ん」...は体力もだが、何よりも前向きで気力が充実していることを言う。決断が早く"清濁併せ呑む"力を持っている。肚が座っているのだ。そのまま人生の先達として、師表とも指標ともなって、孔子や釈迦のように特別な存在ではなくとも、"あの人のようになりたい、近づきたい"と仰がれる存在だ。


 そして実際、この世には有名、無名を問わず、そういう方がおられるのだ。以下、そんな人たちの言動を追ってみたい。"求めよ、さらば与えられん、叩けよ、さらば開かれん"(新約聖書)というではないか。

 

 口を開けて待っているのではなくて、だ。


 心を起こさんと欲すれば、まず、その身を起こせ。(島崎藤村)

(2013年8月24日号掲載)

 
美しい晩年