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18 マナスル登頂 イランとの合同隊、秋季初の記録達成

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 日本・イラン合同ヒマラヤ登山計画は、1974(昭和49)年にパーレビ国王が裁可し、イラン側の経費は国防予算からの支出になりました。そのパートナーが長野県山岳協会ではアンバランスなので、こちらも日本山岳協会の事業とし、準備は長野県山岳協会と愛知県山岳連盟が進めることになりました。

 東京の帝国ホテルで行われた調印式は、報道陣が見守る中、両国代表の署名に続き、後援会を代表して信濃毎日新聞社の石原俊輝社長も署名しました。信毎は専用事務局を設置し、テレックスを備えるなど全面協力。県や多くの県内企業からも寄付をいただきました。

登攀隊長に就く
 総額9000万円の経費は、イラン側と日本側が折半。隊員は10人ずつ20人。言葉も文化習慣も異なる国が、対等の条件で合同隊を組んでヒマラヤに挑むのは前代未聞だったと思います。私は実質的な現場のリーダー、登攀(とうはん)隊長に就任しました。

 イラン側は、細かい計画を日本側にやってもらって初のヒマラヤ8千メートル峰登頂を成功させたい。日本側は、資金集めの課題もあるが、何よりも友好を旨として「ヒマラヤ8千メートル峰」が目的でした。少なくとも、私はそう考えました。これに政治・経済両面の事情が絡み合って実現した「希有のプロジェクト」と言っても過言ではないでしょう。

 イランの最高峰・ダマバンドでの合同合宿、偵察隊の派遣、テヘランへ飛んでの打ち合わせ-と、事前準備は着々と進みました。物品の調達はすべて日本側が担当したので、16トンに及んだ荷物は、まだ元気だった兄が営む田村倉庫に集められ、万歳の声に見送られて出発して行きました。
 こうして76年8月、私たちは標高8156メートルのマナスル峰を目指してネパールに向かいました。カトマンズ空港で出迎えたイラン隊と顔を合わせた時、共通言語を英語にするとの協定事項があったのに、挨拶以上は話せない隊員が双方に多数いることに顔色が青ざめる思いでした。何より重要なのは協調性です。言葉が通じなくて、いかに協調性を保つか。皆の命を預かる登攀隊長として気を引き締めました。

 ほとんどタブーがなく個人の努力に重きを置く日本人と、豚肉も酒も禁止で祈りを欠かさず、何事もアッラーの神様のおぼしめしと考えるイスラム教徒のイラン人が、寝食を共にしながら命懸けの3カ月を過ごすのですから、エピソードを挙げたらキリがありません。10月12日、日本の影山淳、イランのアサデ、シェルパのパサンの3人が、烈風と寒気の中で頂上に立つ快挙を成し遂げてくれました。秋季マナスル初登頂記録でもありました。

生き続ける友情
 アサデはイラン陸軍の中尉で登山経験はありません。ヒマラヤは日本の山より大ざっぱです。しかも長丁場。ですから、技術は日々向上します。アサデは英語が上手で明るく体力も抜群で、コミュニケーション力に優れ、精神のバランスを崩すことなく心身共に安定していました。一方、技術と経験で本命と見られていたイラン隊員は異文化適応が難しく、憔悴して一線で活動することができませんでした。

 ヒマラヤ登山は生と死が紙一重の極限の世界です。誰もが頂上を目指して死にもの狂いで頑張りましたが、登頂のチャンスはたった1回でした。シェルパやポーターも含めると総勢600余名、支援を頂いた方数知れず。マナスル登頂は「友情はマナスルを越えて」、多くの人の心に今も生き続けていると思います。
(聞き書き・北原広子)

写真=8156mの絶頂マナスルに立つ影山淳隊員
 
田村宣紀(のぶよし)さん