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02 成り立ち(下) ~為政者のあるべき姿示す~

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 『むし倉日記』の筆者、河原綱徳(つなのり)は1868(慶応4)年22日、77歳で亡くなっているとみられる。大震災のあった47(弘化4)年には50代半ばであった。そのときは恐らく、藩老中の最年長者であったと思われる。

 そこで彼は、この震災に当たって藩主の真田幸貫を助け、同僚の藩老や山寺常山、佐久間象山ら有為な人物の協力の下、時宜を得た対応をした。このことは、非常災害に直面したときの為政者のあるべき姿を示したものとして着目してよい。そしてこの記録から「変」に処するときの達人の心境をうかがうことができる。

 『むし倉日記』の冒頭で、筆者はこの稿本の"あらまし"について大要次のように述べている。

 「弘化43月、私はこの月はお勤めに当たっていて毎日午前8時に出勤し、午後1時には鎌原石州と交代して帰宅した。そして午後6時に再び出勤して午前2時に帰宅した。

 4月になってもこれは同じであった。しかし水災の後の413日からは夜の出勤はなくなり、午前中だけとなった。

 午後1時から夕方までは自由だったので、自宅の裏にある離れで日の暮れるまで暇に任せて、後世の手引にもなればと願って、思い出すままに書き付けたものがこの書である。

 もちろん、下書きをしてそれを書き直したものではないので、文章も大変拙(つたな)いものである。『むし倉日記』と名付けたのは、このたびの地震で最も被害の大きかったのが虫倉山山麓の村々であったからである。その上、震源地がこの山と思われたからで、特別に訳があったからではない。このほかにも書きたいことが多かったが、公私多忙で不可能。

 そのうちに忘れ去ることが多く、やめた。残念であった。しかし、地震のとき私が臨番の家老でもあったので、この一件を数冊にしたためて家蔵としたのである」  

2013921日号掲載)