きょうこちゃん さようなら 僕はきみがすきだった。
しかし そのとき すでにきみはこんやくの人であった。わたしはくるしんだ。
そして きみのこうフクをかんがえたとき あいのことばをささやくことを ダンネンした。
しかし わたしはいつも きみをあいしている
上原良司
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うれしいにつけ悲しいにつけ詩は、人の心の奥深くにある情感が言葉になって、表に現れ出たものだ。そうであればこれもまた、紛れもなく「詩」である。
なるほど短歌や俳句のように、5・7・5・7・7とか5・7・5といった形式を踏んではいない。感情表現が多彩で豊かな現代詩とも違う。
けれども、いちずに心情を吐露している。けなげな愛の告白になっている。体裁こそ詩歌ではないにせよ、その中身においては、詩歌の部類に含めておかしくはないだろう。
上原良司。太平洋戦争の終結を目前に1945(昭和20)年5月11日、陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入し、戦死した。22歳だった。
その上原良司が、避けられない死を間近に控え、ひそかに残した恋文が冒頭の一文である。しかも普通のラブレターではない。
イタリアの反ファシスト哲学者、歴史家ベネディット・クローチェの翻訳本『クローチェ』が愛読書だった。

遺品となった『クローチェ』の見返しに遺書が書き込まれ、ページをめくっていけば、ところどころ丸印で文中の文字を囲ってある。それをたどると、恋文になるのだった。
以上の秘話は、安曇野市の地域史研究家中島博昭氏の労作『あゝ祖国よ 恋人よ きけわだつみのこえ 上原良司』(信濃毎日新聞社)に教えられた。
晩夏の昼、北安曇郡池田町、あづみ野池田クラフトパークの坂道を上る。高台に立つ良司の碑を目指した。特攻攻撃の前夜に書き記した最後の遺言「所感」の要点が刻まれている。
〈あすハ自由主義者が一人この世から去って行きます〉
眼下に安曇野が広がる。この近くで医師の家に生まれ、幼少のころは真正面に見える有明山(2268メートル)の麓で育った。
直線距離でざっと4キロ弱。稲穂が黄色く垂れる田の間を歩きながら、死を覚悟する一方で燃え募る恋心を抑えられない青年の、苦しい胸中に思いが巡る。

JR大糸線有明駅の近く、安曇野市有明に乳房橋(ちぶさばし)という名のコンクリート橋がある。45年4月、母親ら家族に別れの帰郷をした良司は、この橋で「さようなら」を3回、大きく叫んで去った。
そして1年後の46年4月26日、こんどは小さな骨つぼに姿を変え、乳房橋を渡って無言の帰宅-。これが当時の青春であった。
〔特別攻撃隊〕略して特攻。第2次世界大戦の末期、日本軍の劣勢打開に向け、敵艦艇に体当たり攻撃するために編成された陸海軍の部隊。航空機のほか人間魚雷なども。
(2013年9月21日号掲載)
=写真1=「さようなら」を叫んだ乳房橋
=写真2=碑に刻まれた良司の肖像