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16 西アジア登山 〜ナホトカから西へ 感慨でいっぱいに〜

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 「西アジア登山探検隊」10人は、1971(昭和46)年4月の出発に向けて作戦を練りました。


 飛行機だと現地での交通手段が不安なので、車利用に決定。日産サニー長野に持ちかけると、サニーのバン2台を無償で提供してくれました。ボンネットは大きな日の丸、車体には社名などをペイントしたド派手な車です。


 3カ月の全日程参加が可能な5人は自動車隊で、パキスタンのカラチからアフガニスタン、イラン、トルコへ車で走ります。そこまでの休暇は難しい私を含む5人は後発隊で、横浜港から船で当時のソ連へ。広大なユーラシア大陸の東に位置するナホトカに降り立ったとき、この大地にはヒマラヤや、アルピニズム発祥のアルプスがあるという感慨で胸がいっぱいでした。


 うれしさで眠らず

 うれしいことはもう一つありました。5年前のペルーアンデス登山隊で休暇が取れず共に断念した藤沢忠先輩も参加できたことです。


 シベリア鉄道と飛行機を乗り継いでモスクワへ。ソ連を旅するには、大使館に詳細な旅程を提出して許可を受け、派遣されたガイドの案内で指定の一流ホテルに宿泊しなければなりません。飛行機は天井の構造がむき出しで輸送機のようなソ連製でしたが、うれしさのあまり一睡もすることなく、9時間ずっと地図帳と眼下の景色を見比べていました。


 ソ連領だったグルジア共和国からトルコ国境行きの列車に乗ると、線路は草原地帯を真っすぐに地の果てまで続いていました。国境で停車すると、トルコのSLが煙を上げて近づいてきます。ソ連のはディーゼルでしたから、格差を感じたものでした。


 両国の線路はつながっておらず、それぞれ行き止まりで、間に木製のプラットホームがありました。そこに、銃を抱えた両国の兵士がビシっと背中合わせで整列して号令をかけ、それに従って乗客が一斉に入れ替わります。私たちもソ連からトルコに移りました。


 約束のエルズルム駅で先発隊と合流できたときは感激でした。携帯電話はありませんから、「何かあったらトルコの日本大使館へ」との約束を交わしてあっただけです。全員で首都アンカラまで走り、トルコ登山協会の会長を訪ねました。親日的で好人物でしたが「クルド族の本拠地で緊張が高まっているため生命は保証できない」と言い、予定の山は不許可。私たちの落胆に彼は「地中海寄りのタラス山脈なら」と紹介してくれ、4000メートル弱の氷雪の山を登りました。


 苦労した食事

 我々貧乏隊の食費は1日1人1ドル。宿泊はテントで、全て自炊ですが、それでも著しい不足です。「食事係、なんとかしろ」と叫んでも答えは「金がない」で、パンと塩とキュウリ続きで痩せこけてしまいました。


 次はイランです。あらかじめ連絡を取り合っていた一橋大学山岳部出身の登山家で、イラン三井物産の丸子博之さんにテヘランで迎えていただき、シシカバブをたらふく食べさせていただき精気を取り戻しました。


 イランでの登山の目標は、砂漠のど真ん中にあるザクロス山脈です。ベース・キャンプで遊牧民の族長の招待で出てきたのが洗面器に入ったヨーグルトです。飲もうとするとヤギの毛がびっしり浮かんでいる。ヤバイと思い、飲んだふりをして隣に回したら、全員が同じことをして全く減らない。族長は不機嫌。覚悟を決めて飲んだらうまかったのですが、皆で腹を下しました。

(聞き書き・北原広子)

(2013年8月31日号掲載)


=写真=パキスタンから走ってきた自動車隊と合流(トルコ・エルズルムの草原で)