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75 "老いさらばう"と"老いてなお"(下)

 励まされ鼓舞される話を続けたい。

 挫折体験と枯淡の味わい

 この欄で映画監督だった新藤兼人さんの談話を採り上げたことがある。こんな話だった。

 若いときは「老人」を外側から一つの風景として眺めていた。それが老年になると、内側からその身になって見られるようになったと。明日は我が身、同病相哀れむ立場でということのようだった。

 新藤さんはこうも語っていた。「老いを迎えてなお仕事に熱意を燃やす人は、幾多の挫折を乗り越えてきている。この経験こそが十分に"若さ"に対抗できる力だ」と言うのである。

 挫折といえば、誰しもが痛いほど身に覚えのあること。少年時のあのこと。青年時の誰にも語れず、悶々とし屈折していた日々。それが力だと言われれば、これほど鼓舞され、奮い立たされる言葉もない。どんと背中を押されるのだ。その力強い温かさに込み上げるものがあるのだ。

 また、そうした幾多の試練や挫折を乗り越えた人格には、自ずから創り上げられた徳が付いて回るように備わる。枯淡の味わい、磨きのかけられた渋さ、がそれだ。枯淡の品格が漂うのだ。その厚みと深さは"若さ"が遠く及ばない世界である。人として到達し得る大きな魅力の一つだ。無論、若さと張り合う思いなど毛頭ない。

 伊能忠敬、民族の先達、指標として

 世に師表(人の師となり手本となること)として仰がれるような人は、単にその専門性に長じ、一芸に秀でているというだけでなく、その生き方に大きな魅力があり、教えられ、魂をも揺り動かされ、眼を覚まされるからだ。

 その人があること自体が日本の幸福であり、世界に誇れる人材、その代表選手の一人が伊能忠敬だ。東京の江東区に富岡八幡宮(深川八幡とも)という社があり、その境内に伊能忠敬の銅像が立つ。草鞋を履き、右手に方位を測定する彎(わん)か羅鍼(らしん)という器具を持ち、腰に短刀を指す。さぁ、やるぞ-という志がその凛々しい面構えから伝わってくる。忠敬は測量に出発する際には、いつもこの社前に額ずいて旅の安全と成功を祈願したのだという。

 忠敬は上総の生まれ。1745(延享2)年~1818(文政元)年、73歳で江戸八丁堀の自宅で死去。名主を継ぎ家業の酒造業に専念して財をなし、傍ら暦学・測量・天文を学ぶ。45歳のとき隠居を願い出るが容(い)れられず、49歳にして認められ踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の思いで全国測量の壮途に就く。天賦の才にも恵まれたろうが、何よりも信念の人であり、努力家であった。

 膨大な測量図と絵図に見られる精確さは、今日の測量技術からみても舌を巻くほどだといい、忠敬の声価は年ごとに高まるばかりだ。破格の大業を成し遂げたのだった。

 伊能測量隊の足跡と3回の信州入り

 測量は全国を股に掛け、調査は10次に及ぶ。55歳から開始して17年間、この間の測量日数3753日。旅行距離は42275キロに達するのだそうだ。

 忠敬はこの17年間一日も欠かさず「測量日記」をつけ、後日清書しての28冊は国の重文指定を受けている。日記は測量の事績にとどまらず、江戸後期の地理・風土・歴史、世態風俗を知る上で極めて貴重な資料だ。

 測量隊の信州入りは第3次、7次、8次の3回で、3次は奥州日本海岸から越後に下り、高田から北国街道を長野・上田・碓氷峠を経て江戸へ。7次は名古屋から三州街道を伊那路へ。諏訪に出て甲州道中を甲府から江戸へ。折り返して関東から中山道を高崎、望月、諏訪、木曽から名古屋へ。8次は飛騨の高山から野麦峠を越えて木曽へ入り、中山道を北上して洗馬宿から善光寺街道に折れ、松本、長野を経て飯山へ。折り返して須坂、松代を経て北国街道を江戸へ。

 測量隊は多いときで19人。その費用は当初は忠敬が私財を投じてのものであったが、幕府も次第にその偉業を認めて援助。沿道の諸藩・諸役、庶民もまた助力を惜しまぬようになったのだった。

2013928日号掲載)

 
美しい晩年