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20 中国登山協会 ~物見の岩で技術指導 交流発展し信頼厚く~

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 話は1976(昭和51)年の日本・イラン合同マナスル登山の年に戻ります。私たちがヒマラヤに挑んでいる最中に、大きなニュースが飛び込んできました。72年に日中国交正常化を果たした田中角栄元首相がロッキード事件で逮捕され、人民中国を率いた毛沢東元主席が死去したのです。

 毛沢東の死で文化大革命は終息に向かい、中国政府は中国領内の山を外国人に開放するようになります。まだ未踏峰があるので、世界中の登山家が競って中国側からヒマラヤなどを目指し、日本からも申請書が殺到したはずです。

 研修計画を提案

 中国への登山申請にはパイプ役、つまり政治家の仲介が幅をきかせていました。ところが長野県には適当な人が見当たりません。加えて長野県山岳協会には、自主独立の精神があり、政治家に頼ることを良しとしない気風がありました。

 しかし、中国の山に登りたい―は私たちの本音でもあります。ここで斬新なアイデアを出したのが、私の尊敬する吉沢一郎先輩です。彼は「中国登山協会はソ連の技術で登っていたが、文革で10年も中断したので近代登山では大きく後れを取っている」と中国の状況を分析していました。

 そこで「中国の登山家を日本に呼んで技術指導をしよう」と言うのです。大胆で理にかなった逆転の発想で、しかも行動が迅速。「日中合同登山技術研修計画」という県山岳協会名での提案を日中友好協会や日中文化交流会を通じて提出、交流を呼び掛けました。

 反応はありました。80年に中国登山協会主席の喬加欽氏を団長とする6人が東京での用事の後、長野を訪れたのです。中国側は長野側の提案を高く評価しました。帰国後すぐに「814月に中国チームを長野県に派遣する」との正式文書が届きました。

 研修隊は私が空港に出迎えましたが、9人の隊員のうちには人民服の人がいたのが印象的でした。後に親しくなってから聞いたことですが、来日に当たり「資本主義の日本で洗脳されないように」とガードを固くしてきたそうです。

 研修場所は長野市の物見の岩が中心でした。吉沢さんが陣頭指揮を取り、登っては降りる訓練を徹底的に行いました。受ける方も指導する方もヘトヘトで、遊びはなし。「ニーハオ・カンペイ」もなしの1カ月です。お金がありませんから、宿泊は先輩の所有する飯綱高原の山荘。受け入れの最初の作業は便所のくみ取りで、食事は会員の奥さんたち手製のおにぎりとおかず。気合の入った研修と親身な世話で、こちらの本気が中国側に伝わりました。後に中国登山界をリードした史占春主席は「中国の近代登山は長野から始まった」と言いました。

 両国を交代で行き来

 研修は両国を交代で行き来しながら10年続けることになり、日本では岩登りを、中国では日本にない氷雪技術と高所登山を学びました。これを土台にして登山を通じた中国との交流は様々に発展し、相互の信頼関係は厚く、友好関係は今も続いています。

 吉沢さんは61年に中国領からのチョモランマ(エベレスト)登山を企図し、申請書を「拝啓 毛沢東殿」として送ったところ、赤十字を通じて「残念ながら貴国とは国交が回復しておらず許可できない」との返事があったそうです。吉沢さんのことはすでに何度か触れましたが、世知辛くなった今の社会ではなかなかお目にかかれない傑物でした。

2013928日号掲載)

=写真=「物見の岩」で県山岳協会から指導を受けながら訓練をする中国の研修隊員ら

 
田村宣紀(のぶよし)さん