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02 五輪招致 ~県内候補地を一本化 開催都市に名乗り~

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 2020年夏季オリンピックの東京開催が決まりましたね。多少は参考になると思いますので、私の「歩み」は1998年長野冬季オリンピックのことからお話ししましょう。

 長野五輪が具体的に動き出したのは、1985(昭和60)年3月の県議会で全会一致で招致決議が行われたことからです。当時、県会議員だった私も賛成しましたが、正直言って本当に実現するのかと思う程度でした。

 このときの県会では招致決議に先立ち、山ノ内町の西山平四郎議員が競技団体などの要望を受け、自民党の代表質問で冬季五輪の信州招致を提案。吉村午良知事が「積極的に取り組みたい」と歯切れよく答弁したのを覚えています。

 サラエボを訪ねて
 渋温泉の老舗旅館の主人だった西山さんと私は、初当選が同じで懇意にしていました。質問の後、西山さんに「長野でもできるのか」と尋ねたところ、「できるさ。サラエボだってやったんだから」との返事でした。

 後に私も、世界の子どもたちを支援する「長野オリンピック国際協力募金(長野オリンピック・ハーモニー)」による学用品などを贈るため、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪れたことがあります。建物には内戦による砲弾の跡が生々しくあったが、山に囲まれ長野盆地のような感じで、西山さんが「やれる」と感じたのもうなずけました。

 その年の10月、私は県議を3期目の途中で辞して市長選に立候補し当選することができました。待っていたのは、長野市が「開催都市」として名乗りを挙げることです。

 冬季五輪の県内招致は戦前からの夢でした。戦争で返上になったものの、35(昭和10)年には志賀高原、菅平、霧ケ峰、乗鞍などが手を挙げ、札幌と争って敗れました。61(昭和36)年にも山ノ内町-軽井沢町、白馬村、安曇村が立候補しましたが、またも札幌に敗れ72(昭和47)年に札幌五輪が実現しています。

 長野県の場合、候補地を一本化するのが難しく、以前の2回は各地がばらばらに立候補し、一敗地にまみれていたのが実情です。

 そこで今回は「3度目の正直」を合言葉に、吉村知事を会長とした「長野県冬季オリンピック招致準備委員会」が発足。八十二銀行の小林春男頭取を委員長とする専門委員会が慎重審議を重ね、長野市、山ノ内町、白馬村を開催都市と競技会場地に決めました。

 これを受けて、86年6月に長野市、山ノ内町、白馬村の3市町村議会もそれぞれ招致決議を行い、7月には各界各層のご協力により「長野冬季オリンピック招致委員会」が設立されました。開催都市の市長ということで私が会長に選ばれ、吉村知事は名誉会長に就任しました。

4都市間で国内招致
 その直前に長野市長名で日本オリンピック委員会(JOC)に98年開催の第18回冬季五輪への立候補書を提出したところ、旭川市、山形市、盛岡市も続き、4都市の間で国内の招致活動が展開されることになりました。

 立候補に当たって、長野市が強調したのは▽信州はウインタースポーツのメッカ▽しかも3大都市圏に近く、高速交通網の整備により観客の大量動員が可能▽市制100周年記念の最大行事▽市民・県民が一丸となった招致態勢-です。

 それからは、国内候補都市はJOC総会で決まるので、機会を捉えてJOC委員に長野の実情を説明し理解と支持を求めました。また、国内世論の盛り上げも大事で、特に県民の理解を深めるために各地で大会を開くなどPRに努めたものです。
(聞き書き・横内房寿)
(2013念11月16日号掲載)

=写真=各界団体などが加わった招致委員会設立総会

 
塚田佐さん