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大阪・兵庫06 難波(なにわ) ~王仁が詠んだ名木~

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 〈あらすじ〉 朝廷の臣下が紀伊の三熊野で修行した帰り、難波津の旧都にさしかかると、老若2人の男が梅の木陰を掃き清めている。尋ねると「古今和歌集にある王仁(わに)が詠んだ歌の名木」と老人が答え、当時の仁徳天皇の善政などを語った後、老人はその王仁、若者は梅花の精と告げて消える。夜になると老人は王仁、梅の精は木華咲耶姫(このはなさくやひめ)の姿となって現れ、舞を舞って万歳の世をたたえる。
      ◇
 日本書紀などによると、王仁は4世紀末に朝鮮半島の百済から渡来し、漢字や儒教を伝えたとされる帰化人。古今和歌集の序文に「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」(難波津に咲いている梅の花よ、冬の間はこもっていたが、今は春真っ盛り。美しく咲き匂っているよ)の歌が載っている。謡曲はそれを典拠に創作された。

 古墳時代の大阪湾は、いまの東大阪市の河内地方まで入り込んでいた。その湾の入り口に港があり、難波津と呼ばれていた。ここに仁徳天皇が最初に都を築かれたとされ、当時の逸話が古事記や日本書記にみられる。

 その仁徳天皇を主神とした高津宮(こうづぐう)という神社が中央区高津にある。地下鉄谷町線の谷町九丁目駅から数分、道頓堀に近い繁華街だが、境内に多くの桜が植えられた静かな場所だ。参道に王仁が詠んだという梅の木や記念碑などがあった。

 ただ、この神社は秀吉の大阪城築城の際、ここに移されたといわれる。その元の場所である都は古くから諸説があり、長く不明のまま放置されてきた。が、大阪市立大の山根徳太郎教授が1953(昭和28)年から生涯をかけて発掘調査し、次第に明らかになってきた。

 場所は大阪城近くの法円坂の一帯だ。大阪城の築城や都市開発で遺構の多くは破壊されている。それでも飛鳥から奈良時代にかけて前、後期の2つの難波宮跡が確認され、仁徳天皇の高津宮もここにあったと分かってきた。近くにあった「高津宮址」と刻んだ巨大な石碑が、府立高津高校の前庭にある。

 法円坂交差点の南側に、約1キロ四方の空き地が広がっている。歩兵第8連隊があったため、戦後の乱開発から免れた。朱雀門や内裏跡などが発掘され、「難波宮跡公園」として国の史跡になった。

 大阪城の本丸内にあった歴史博物館も公園前に移転され、2001(平成13)年に新しく開館した。難波宮の模型、学習センターなどが設置され、遺構の一部が地下に保存されており、見学できる。

 私は大学を卒業した1954(昭和29)年、大阪で暮らした。法円坂を由緒ある宮跡とは知らず、通勤自転車で走っていた。
(2013年11月16日号掲載)

=写真=高津高校にある石碑
 
謡跡めぐり