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07 犀川 ~山が抜け落ち せき止める~

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 3月26日の夜、善光寺の火事もようやく消えた。お城の土手の上で遠眼鏡を持って見ると、一面に河原のような原っぱの中に山門と本堂だけが残されて、それがひときわ高くそびえて見えた。

 殿様より大勧進へ見舞いとして白米30俵、椎茸5斤(約3キロ)、干瓢(かんぴょう)70把をくだせられ、長井主計が使者となった。

 小市の真神山は70間(130メートル近く)ほど抜けて犀川に落ち込み、いつもは80間(約145メートル)余りもあった川幅が14~15間(25~27メートル)になった。その下流には、長さ80~90間(約145~160メートル)の中島が出現した。そして、小市山も2~3丈(6~9メートル)低くなり、そのためか犀川御普請所も大部分崩れ、この近くは所々床違い(断層)が見られた。

 田んぼが隆起して畑のようになった所や沈下した畑もあり、御普請所の石垣も弓なりに曲がった。犀川がせき止められたのは、山平林村と安庭村との間にある虚空蔵(こくぞう)山(岩倉山)が二つに割れて犀川に抜け落ちたからである。

 すなわち、この山の西側の山平林村の孫瀬組と岩倉組をくつがえして数10丈の土砂・岩石で犀川をせき止めたので、堰堤(せきてい)の長さはおよそ10丁(約1100メートル)に及んだという。

 岩倉の「抜(ぬけ)」の方は5~6間(約9~11メートル)も10間(約18メートル)もある大岩が抜け落ちて川をせき止めていた。特に10丁ほどの堰堤が造り出されたのであるから、「いかに水がたまったとしてもこれが抜け出ることはなく、いずれ高い滝となって段々に落ちるだろうから、差し当たって川中島は心配ないだろう」などの風説も飛び交った。

 しかし、逆に藩の役人が犀口の普請所の修理と危難よけの築堤のために27日、付近の住民を動員しようとしたが、川が切れて水が押し出してくるのを恐れて、山上に避難して集まらず、参じた者も逃げ帰る始末であった。
 (元『長野市誌』近現代史部会長)