
善光寺本堂の西南、桜枝町と信大教育学部キャンパス周辺の字は「御殿」と呼ぶ。法務局の公図で1894(明治27)年の資料や『長野県町村誌』(74年から調査された官製データ集)に、「御殿」の表記がある。ある殿様の広大な御殿があったというのが地元の伝承だ。
以下は、1847(弘化4)年の善光寺大地震の翌年の創業というみそ・しょうゆ醸造の三原屋社長の河原清隆さんの話だ。「うちの店と工場も御殿のエリア。祖父が歴史好きで自身の著作では、殿様とは上杉謙信ではないかと記している。だが、門前に御殿と呼ぶほどの屋敷を構えたとすると、私は川中島4郡を領した松平忠輝ではないかと考える。伝承と状況証拠だけで、明確な古文書や史実はないが...」
忠輝(1592~1683)は徳川家康の6男。奇矯な性格と乱行で時代小説をにぎわす。伊達政宗の長女・五郎八(いろは)姫と結婚、越後や善光寺平にも縁が深い。幼くして下総佐倉の城主。次いで松代城主、さらに越後の高田城を合わせて60万石の城主になった。
もちろん伊達家との婚姻は家康一流の政略だが、五郎八姫は高田城で忠輝と2年余の新婚生活を送った。高田城前のキリスト教会のステンドグラスには姫が描かれている。姫はキリシタンだったとの説による。正宗と家康の確執は数多くの講談や小説になっているが、高田城の縄張り(設計)を担当したのは正宗だ。
家康のもくろみは、加賀百万石・前田氏へのけん制を兼ね、佐渡から江戸への金塊輸送ルートの確保だった。政宗は愛娘の婿のために現地高田で陣頭指揮を執った。前田氏も築城に参画させられている。家康の深謀を知りつつも面従する諸大名...。そして徳川のエリート忠輝は大阪冬・夏の陣に遅参、遅怠を理由に改易(所領没収)流罪となる。忠輝は諏訪の高島藩に幽閉され、92歳で亡くなった。
以上が「門前御殿」の殿様の状況証拠だ。五郎八姫は忠輝と離縁後、仙台に戻り、数奇な運命をたどる。宮城・仙台ではアニメ・キャラクターになって大人気という。美人で聡明だったと、肖像画が残る。
もし、善光寺門前の「御殿」が忠輝のものだったとすれば、高田城で暮らした五郎八姫も幾度か善光寺に参詣したと想像できる。伊達家の菩提寺・松島町の瑞巌寺に残る肖像について、右手に握るのは数珠か、ロザリオか2説がある。
母の愛姫(めごひめ)がキリシタン、伊達家はローマへ遣欧使節として支倉常長を派遣。常長がローマ法王に謁見した史実が背景にある。「忠輝と五郎八姫なら何らかの事績が文献に残るはずだが、御殿にまつわる史実もないのが不思議」と郷土史家。たしかに『長野市誌』にも言及がない。
(2013年11月16日号掲載)
=写真=「字御殿」と記されている明治27年の公図