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045 惜別の歌 ~甘酸っぱさと悲しみが交錯~

  惜別の歌
   作詞 島崎藤村
   作曲 藤江英輔

 一、 遠き別れに 耐えかねて
  この高楼(たかどの)に のぼるかな
  悲しむなかれ わが友よ
  旅の衣を ととのえよ

 二、 別れといえば 昔より
  この人の世の 常なるを
  流るる水を ながむれば
  夢はずかしき  涙かな

    ◇

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 何げなく口ずさんできた歌にも、人知れず物語の秘められていることが多い。
 戦後、全国各地に生まれた歌声喫茶で人気を呼び、歌手小林旭さんの歌でレコード化されてヒットした「惜別の歌」もその代表格だ。

 話は今から70年ほど前、太平洋戦争末期にさかのぼる。ハワイの真珠湾攻撃はじめ緒戦で勝利を重ねた日本軍だったが、米国が態勢を立て直し、攻めに転ずると形勢が逆転する。海軍の主力がミッドウェー海戦で大打撃を被った翌1943(昭和18)年10月、大学生の徴兵猶予を取り消す法律が公布された。それまで大学生は兵役に就かなくてもよかった。学問を積んだ人材の確保も重要だからである。

 開戦から2年、よく訓練された戦闘機の飛行士や軍艦の乗組員を多数失っている。大学生まで動員し、早急に補充せざるを得なくなった。

 2カ月後の12月21日には、東京・神宮外苑競技場を埋め、出陣学徒壮行大会が開かれる。冷たい雨の日だった。校旗を先頭に約2万5000人、それをスタンドで見送る学生5万5000人。やがて多くが帰らぬ人となっていく。

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 こうして緊迫の度を増す44年の暮れだった。中央大学予科の学生たちは、東京・板橋の軍需工場で兵器造りに当たっていた。

 その中の1人が、同じ工場に学徒動員されていた東京女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)の学生から1枚の紙片を手渡される。

 そこには島崎藤村の詩集『若菜集』に登場する「高楼」が走り書きされている。それをギターの得意な学生、藤江英輔が受け取り、曲をつけた。そして学友に召集令状が届き、1人また1人と戦地に赴くたび、2度と会うことのないだろう別れの歌として、そっと声を合わせる。

 元となった藤村の詩「高楼」は、遠くへ嫁ぎゆく姉との別れを妹が悲しむ内容だ。妹と姉が交互に切ない気持ちを述べ合う。全部で8節に及ぶほど長い。

 そのうちの4節が選ばれ、「惜別の歌」に生まれ変わった。さらに1カ所「悲しむなかれ わがあねよ」の「あね」が「友」に入れ替わっている。

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 しなの鉄道小諸駅の東西自由通路を懐古園側に渡り終えたところに、「惜別の歌」の碑がある。向き合えば、青春の甘酸っぱさと別れの哀惜とが、時代を超えて胸の奥深く、染み通ってくるのだった。

 〔学徒出陣〕43年、大学生、高専・専門学校生の徴兵猶予を打ち切り、入隊させたのが始まり。出陣の歌「ああ紅の血は燃える」に送られながら、学業半ばにして戦地に赴いた。
(2013年11月2日号掲載)

=写真1=懐古園わきの「惜別の歌」碑
=写真2=碑面に刻まれた文字
 
愛と感動の信濃路詩紀行