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046 野麦峠 ~製糸工女の血涙を宿して~

 アー飛騨が見える
 飛騨が見える
 (山本茂実『あゝ野麦峠-ある製糸工女哀史-』)

      ◇

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 まさに、"いまわの際"の一言だ。これほど1人の人間の、一身を振り絞って言い残した、哀切極まる望郷の叫びを、ほかには知らない。

 1909(明治42)年11月20日午後2時、信州と飛騨の境、野麦峠まで諏訪湖畔から兄に背負われてたどり着いた娘が、衰弱の果て静かに息を引き取った。
現在の飛騨市、当時の岐阜県吉城郡河合村角川(つのかわ)生まれの政井みね。21歳と9カ月の短い生涯だった。

 その6年余り前の明治36年2月、みねは繭の糸を紡ぐ製糸工女として働きに出ることになった。15歳の時だ。

 父親が亡くなり、貧しい一家の暮らしの負担を少しでも軽くするため、そのころの農山村で広く行われていた"口べらし"である。

 江戸から明治に代わって30数年。あらゆる面で近代化を急ぐ日本は、輸入品、外国人技術者の賃金などに支払う大量の外貨を必要とする。一方、輸出で外貨を稼げるものはそう多くなく、生糸が稼ぎ頭を担う時代だった。

 みねが向かった先は信州諏訪。製糸の拠点、平野村(岡谷市)の製糸工場、山一林組だ。同じような境遇の少女たち100人ほどと列をつくって3泊4日、野麦峠や塩尻峠を歩き通してのことだ。

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 蚕が作った繭から生糸を撚るには、ごく繊細な糸を結んだりする若い女性の器用な手先が欠かせない。みねは順調に優れた工女への階段を上る。年間の稼ぎ「100円工女」に数えられるまでになる。家一軒建つとされるほどの額だ。

 ごく一部であったにせよ、大人の男顔負けの稼ぎができる半面、少女たちの働く環境は劣悪だった。もうもうと湯気が立ち込める中、座りっ放しの長時間労働。休憩も満足に取れない。

 結局、みねは結核を患い、重い腹膜炎を発症してしまう。「ミネビョウキ スグヒキトレ」。電報を受け取った兄の辰次郎は、飛ぶようにして駆け付けた。

 そこで目にしたのは衰弱し、変わり果てた妹の姿だ。背板に後ろ向きに座らせ、背負って飛騨へと引き返す。しかし無念も無念、野麦峠までの命だった。

 工女たちだけが、とりたてて過酷だったのではない。むしろ現金収入を得て親孝行できる立場は、憧れの存在でもあった。工場の食事が粗末とはいえ、米が取れずヒエなどでしのぐ山村からみれば、それはそれでごちそうだ。

 国際的な価格競争にさらされ、工場主たちも汗を流し、血眼になって働く。時代そのものが貧しく、厳しかった。

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 いま野麦峠(1672メートル)には、兄の背に乗るみねの像が立つ。木立の中の旧野麦街道では、傍らの「政井みねの碑」に花が添えられ、初冬の冷たい風に揺れていた。
 豊かな国へ突き進んだ日本の近代史の一こまが、ここにある。
(2013年11月16日号掲載)

〔野麦〕峠や街道の名になったとされる野麦は、イネ科の植物ササのことだとする説が有力だ。凶作で飢えに苦しむと、その実を集めて臼でひき、ササの実団子にして耐え忍んだ。

=写真1=兄に背負われた政井みねの像
=写真2=飛騨に向かう旧野麦街道
 
愛と感動の信濃路詩紀行