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04 国の支援 ~友人のありがたみ 持ち回りで閣議了解~

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 1988(昭和63)年6月1日に第18回冬季オリンピックの国内候補都市が長野に決まると、通常の市長業務に加えて五輪関係の仕事が増え、大変忙しくなりました。市政の手抜きは許されず、「初心忘るべからず」の心境で頑張ろう、と心に誓ったものです。

 五輪関係では、国際オリンピック委員会(IOC)に立候補届を提出するのに必要な国の承認を得る準備に入りました。まず7月に文部大臣に対して、1998年の「第18回オリンピック冬季競技大会長野招致」の文書を私と吉村知事の連名で提出し、協力を要請しました。

 2首相退陣に困惑
 その後、政府は「第18回オリンピック冬季競技大会長野招致に関する関係省庁課長会議」を設置。私たちは主要施設の規模や大会運営など開催計画を説明し、関連公共事業や国庫補助について協力を求めました。

 翌年1月に昭和天皇が崩御され、年号が「平成」に替わりました。この年の6月1日、「第18回オリンピック冬季競技大会招致申請書」を文部大臣に提出し、早期に閣議了解が得られるよう、お願いしました。

 その日は、全日本スキー連盟会長の堤義明さんの計らいで小渕恵三官房長官、西岡武夫文部大臣と私と堤さんの4人で赤坂プリンスホテルで懇談しました。4人とも早稲田大学の同窓で気心が知れていましたので、長野五輪実現にみんなで頑張ろう、と意気投合したものです。

 翌々日、竹下首相が退陣し宇野内閣が発足しました。しかし、3日後に宇野宗佑首相の女性問題が発覚し、宇野首相は辞職を迫られる事態となりました。これによって閣議了解がずれ込み、IOCへの立候補届提出が遅れては困るので、何とか辞職前に閣議了解を済ませてもらうよう、西岡文部大臣にお願いに行きました。

 すると、西岡さんは「心配しなくていいですよ。至急、持ち回りで全閣僚に署名してもらう方式を取るから」と言われ、ほっとしました。

 私と西岡さんは早稲田大学の同期生で、学部は違いましたが、弁論部の雄弁会を通じての友人でした。学生時代に、西岡さんの郷里の長崎へ遊びに行ったこともあります。当時、西岡さんは父親が亡くなったため学生でありながら地元新聞社の社長をしていました。市内や雲仙などを車で案内してもらい、その時撮った写真を焼き増しして持参したところ「大変懐かしい」と喜ばれ、大臣室の机の上に飾ってくれました。

 全国招致委を設立
 結局、閣議了解は6月6日付で得られました。この時ばかりは友人のありがたみを感じたものです。閣議了解では、国も財政再建が課題であることから、競技施設整備の国の負担割合は2分の1以内とし、簡素な運営を求められました。

 閣議了解が得られたことに伴い、いよいよ国を挙げての招致活動が進められる運びとなりました。私が会長を務めていた県内の招致委員会は解散し、新たに全国組織の「長野冬季オリンピック招致委員会」が10月に設立されました。

 この招致委は、総理大臣と衆参両院議長を最高顧問に、閣僚、国会議員などの顧問30人、委員511人で構成され、吉村知事が会長、私は副会長・実行委員長となり、堤さんが名誉会長に就任しました。これで国際招致活動に臨む長野の体制が整ったことになります。
(聞き書き・横内房寿)
(2013年11月30日号掲載)

=写真=西岡文相(右)に贈った写真。左が私
 
塚田佐さん