
1989(平成元)年は、1月のフランス・アルベールビルに続いて4月にスペインのバルセロナを訪れました。92年夏季五輪の準備を進めていたバルセロナでのIOC(国際オリンピック委員会)理事会と夏季競技連盟の会議に出席するためです。
当時、私は秋に2期目の市長選を控え何かと忙しかったので、5日か6日でとんぼ返りしました。まだ50代でしたから務まりましたけれど、今考えるとよくできたなと思います。
バルセロナはIOCのサマランチ会長の出身地で、自宅のある都市です。ほかにも、ピカソ、ミロ、ダリら世界的な画家を輩出した町です。ガウディが設計したサグラダ・ファミリア教会は現在も工事中で、訪れた時は日本人ボランティアも働いていました。
勝手違うシエスタ
到着すると早速、会長秘書に連絡して、サマランチさんと会談しました。私から長野の準備状況などを説明すると、「いずれ視察に訪れたい」と述べられたので、「機会を見て、ご案内します」と申し上げました。
滞在中は、会議へのオブザーバー出席やIOC委員らとの懇談など慌ただしい日程でした。バルセロナは地中海沿岸だけあって、4月でも夏のような暑さでシエスタ(昼寝)の習慣がありました。そのため午後の会議は15時ごろから始まり、レセプションも20時ごろから22時半ごろまで続き、勝手の違う我々は大変でした。
この間、サマランチ会長の自宅で開かれた15人ほどのホームパーティーに呼んでいただき、会長はじめオリンピック関係者とゆっくり懇談することができました。3階建ての瀟洒(しょうしゃ)な邸宅で、子ども連れの方もいました。椅子も置いてありましたが、子どもも含め誰も座らず立ったまま話し込んでおり、すぐ座りたがる日本人とは民族の違いを感じましたね。
サマランチ会長は若いころ、ホッケー、ボクシング、サッカーをやり、大学の経済学教授や銀行役員を務め、旧ソ連駐在スペイン大使として活躍された方です。スペインスケート連盟会長もし、五輪の選手団長を何回も務め、66年から長くIOC委員をおやりになりました。
酒・たばこは一切やらず、レセプションも1時間くらいで退席するなど、健康に大変留意していました。オリンピック活動には非常に熱心で、世間一般には「IOCのドン」の印象が強かったけれど、切手収集を趣味にするなど五輪関係以外では好々爺(や)という感じで親しみが持てる方でした。
アン王女に自己紹介
バルセロナでは、英国五輪委員会会長でIOC委員のアン王女にもお会いできました。会場のホテルのロビーにいた時、お伴を1人連れて現れ、知り合いの関係者と気軽に話されていました。私も自己紹介をすると、ほほ笑みながらお話しされ大変光栄でした。明るい紺系統のシンプルな服装で、気品のあるすてきなプリンセスでした。この時お話をしたことがきっかけで、その後も何回かお会いできるようになりました。
この年は9月にも、プエルトリコのサンファンで開かれたIOC総会に出席しました。初めて長野から吉村知事を先頭に本格的な招致団を送り込み、総会、レセプション、ロビー活動などを精力的に展開し「ナガノの熱意」をオリンピックファミリーに訴えました。当時92人の委員のうち85人が出席しており、ホテル内に設置した「長野ルーム」には委員29人と家族100人ほどが訪れ、まずまずの成果でした。
(聞き書き・横内房寿)
(2013年12月14日号掲載)
=写真=バルセロナでサマランチ会長と会談