記事カテゴリ:

154 ソニー・井深さん ~先祖は門前の後町で政務~

154-rekishi-1130p.jpg
 ソニー創業者の一人・井深大(いぶかまさる)さん(1908~97)の先祖は、善光寺門前の後町(庁)で政務を取り仕切った。一族は室町時代から関ケ原の合戦まで信州で活躍。後に会津藩(福島県)に仕え、戊辰(ぼしん)戦争では生き残ったものの、親戚には白虎隊士が多い。自刃した隊士の多くは高遠藩がルーツで、藩主・保科正之の移封に伴う。

 井深氏は室町時代初期の大塔合戦(おおとうかっせん)に登場する。信濃守護・小笠原長秀の侍大将として善光寺に入り、もっぱら政務を仕切った。

 「私の遠祖は清和源氏(天皇一族)の分かれで小笠原氏、武田(信玄)氏と同族」と半自叙伝『創造への旅』に記している。鎌倉幕府崩壊で公家勢力が盛り返し、全国が騒乱・乱戦となる。信濃も新任守護と抵抗する国人(在地領主)が対立する構図だ。北信濃の弱小領主は「大文字」を旗印に連合して抵抗した。

 「山猿連中が手を結んでも、何ほどのこと」と、松本地方を根城とする小笠原氏は善光寺へ豪華な武具、きらびやかな衣装をそろえた行進で乗り込む。近在から人々が集まり、黒山の見物人だったと、『大塔物語』に記されている。この時、小笠原氏に従っていたのが「井深勘解由左衛門」という侍大将だった。

 年貢の取り立てをめぐる国人の反発から合戦になり、小笠原勢は撤退。現在の篠ノ井辺りで籠城の末、京都へ敗走する。馬を食うほどの飢餓で凄惨な死闘だった。

 その後、小笠原・井深氏は度々歴史に顔を出す。松本市の北方へ向かい、岡田町を過ぎると岡田伊深という場所に出る。そこの伊深城山が戦国時代の井深氏の拠点だった。善光寺で施政を確立できなかった小笠原・井深一族だが、徳川幕府とは結びつき厚遇された。

 井深大さんは明治末、栃木県日光の古河鉱山技師の家に生まれた。政治や技術のエリート一家で、幼時から電気に夢中の「科学少年」だったと回顧している。トランジスタ・ラジオを生みだした屁理屈と理詰めの癖は、信州人の遺伝子らしい。

 3歳で父を亡くし、愛知県の祖父宅など転々、早大の理工学部を卒業するが、東芝の入社に失敗。名も知れぬ企業を転々とし、盛田昭夫さんらと東京通信工業を設立して、太平洋戦争末期、須坂市に疎開した。

 井深さんは還暦を過ぎて、先祖が善光寺門前の後町(後庁=政務を執った役所)にゆかりがあることを知る。井深氏はその縁から「後庁氏」との別称もあった。晩年、松本の講演では、松本城の支城である伊深城跡の緑を愛した。

 自身の歴史にも造詣を深め、元ソニー社員に調査させ『源租・井深勘解由とその時代』という綿密な歴史書を刊行(非売品)している。
(2013年11月30日号掲載)

=写真=今春、閉校した後町小学校。井深氏はこの付近で政務を執った
 
足もと歴史散歩