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047 紅葉 ~難所の碓氷峠を越えながら~

  紅 葉

     作詞 高野辰之
     作曲 岡野貞一

一、秋の夕日に照る山紅葉
  濃いも薄いも数ある中に
  松をいろどる楓や蔦は
  山のふもとの裾模様

二、渓の流れに散り浮く紅葉
  波にゆられて離れて寄って
  赤や黄色の色様々に
  水の上にも織る錦

    ◇

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 この時季、多くの人が口ずさむ歌の舞台は、作詞者・高野辰之のふるさと、北信濃の斑尾山周辺だと、すっかり思い込んでいた。

 いや、違う。旧国鉄信越本線の群馬県側、碓氷峠に近い熊ノ平駅辺りから眺めた景色だ-。そう聞かされれば、えっ?と戸惑ってしまう。

 もやもや気分を晴らすには、目で確かめるのが手っ取り早い。秋晴れの天気予報に促され、軽井沢に向かった。

 信州と上州を隔てる碓氷峠は古来、人や物の往来に立ちはだかる難所だった。江戸時代の中山道は、上州坂本宿から尾根伝いの急坂を標高1180メートルの旧碓氷峠まで上り、信州軽井沢宿と結んでいる。

 1884(明治17)年5月、もっと坂を緩やかにするため、山腹を削って新道を切り開く。新しい碓氷峠の標高は958メートル。200メートル以上も低くなった。現在の国道18号のルートである。

 この新道を使って資材を運び上げ、93年には横川-軽井沢間に鉄道が敷かれた。レールとレールの間にもう1本、刻みのあるレールを通し、機関車の歯車とかみ合わせて急坂にも耐えるアプト式だ。

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 ほぼ中間、標高689メートルに設けられたのが熊ノ平駅である。蒸気機関車の水を補給し、燃料の石炭を補う。上りと下りの列車が擦れ違う場所でもあった。だから停車時間が長い。

 アプト式では列車の速度は、時速10キロ弱だった。機関車の吐き出す猛烈な煙に悩まされながらも、時間はたっぷりとある。

 「紅葉」は1911年に文部省唱歌として生まれた。東京で活躍する高野が、生まれ育った下水内郡永田村(現中野市)との間を行き来しながら、この辺の景色をゆっくり楽しんだことは十分考えられる。

 100年以上経た今は、新幹線でアッという間に通り過ぎる。時代の差を感じつつ軽井沢の東外れ、碓氷峠から国道18号の坂を下った。

 184カ所もあるカーブの連続は、まるで紅葉街道である。右に左に曲がるたび、本のページをめくるがごとく、赤や黄色に彩られた山襞(やまひだ)が現れては消える。

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 熊ノ平駅の跡地=写真下=に立ち寄った。廃虚の寂しさとは対照的に見上げる山、見下ろす谷は華やいでいる。かつて線路を渡したれんが造りのめがね橋が、西日を浴びて色とりどりの木々の間に溶け込んでいる。

 まさに〈山のふもとの裾模様〉が織り成す見事さを間近にし、ここが唱歌「紅葉」を紡ぎ出したという説が、胸に落ちてくるのだった。

 〔アプト式〕急斜面に対応するための歯車式鉄道。発明者R・アプトの名にちなむ。碓氷峠ではドイツのハルツ山鉄道を参考に、標高差553メートルを乗り越えた。
(2013年11月30日号掲載)

=写真1=名所の一つ、紅葉に囲まれためがね橋
 
愛と感動の信濃路詩紀行