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大阪・兵庫10 蟻通(ありどおし) ~「貫之集」の逸話~

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 〈あらすじ〉 紀貫之(きのつらゆき)が旅の途中、急に日が暮れて大雨となり、馬も倒れる。そこへ傘を差した宮守の老人が現れ「ここは蟻通(ありどおし)明神の境内で、下馬をしないで通ったので、罰を受けた」といい、貫之と知って「和歌を詠んで神を慰めなさい」という。貫之は「ありとほし」を織り込んだ和歌を詠むと、老人は感心し、自分は蟻通明神と告げ、神楽を舞ってみせる。やがて馬も元気になり、貫之は再び旅立って行く。
      ◇
 紀貫之は平安前期の歌人。古今和歌集の選者の一人で、『土佐日記』の作者としても知られる。この謡曲は歌集の『貫之集』に載っていた逸話を脚色した。

 貫之が蟻通明神で詠んだ和歌は、原典では「かき曇りあやめも知らぬ大空に ありとほしをば思ふべしやは」とある。謡曲では「雨雲の立ち重なれる夜半なれば」と上句が違っている。ただ、雨雲が広がって、蟻通明神の「星があり」とは夢にも思わなかった、という意味は変わっていない。

 「蟻通」という妙な名前の由来は二つある。一つは、同神社はかつて熊野街道の要所にあり、平安時代から紀州の熊野詣でが盛んになり、都の貴族たちが編隊を組んで通りかかった。そのさまが蟻の行列に似ていたという。

 もう一つは、清少納言の「枕草子」にある話。昔、唐から突き付けられた難題に「7曲りにくねった管玉に糸を通してみよ」とあった。老人を捨てるというおきてを破って両親を隠していた孝行息子が、蟻に糸を巻き付け、管玉の片方に蜜を塗り、蟻を誘導する方法を両親から教えられ、解決してみせた。後にその息子と両親が蟻通明神に祭り上げられたという。どちらももっともらしい話だ。

 同神社は泉佐野市の長滝にある。JR天王寺駅から阪和線で「長滝」で下車する。快速によっては手前の「日根野」で、車両の半分が関西空港へと分離するので要注意だ。長滝駅からタクシーで数分。田んぼの真ん中に神社があった。

 正面の鳥居をくぐると、石畳、石灯籠、能舞台、本殿と並び、その両側に貫之が落馬したという「冠之淵(かんむりのふち)」、その馬の銅像、弁財天などがこぢんまりと配置してある。ほとんどが氏子の寄贈によるもので、比較的新しい。

 由緒書によると、弥生時代中期の創設で、主祭神は大国主命。現在地より100メートルほど北にあった。焼失、再建を繰り返してきたものの、1万2千坪の広大な敷地は維持してきた。が、1942(昭和17)年、陸軍飛行場の建設で一帯が接収され、神社も移転し、5分の1以下に縮小されてしまった。そして移転後、1年足らずで敗戦だ。

 先祖伝来の神域の移転は、氏子にとって衝撃的だった。軍には抵抗できず、若者不在で老人ばかり。移転作業は困難を極めた。旧神社跡に移転記念碑が建っており、文面にそうした苦渋がにじみ出ていた。
(2014年1月11日号掲載)

=写真=蟻通神社の正面
 
謡跡めぐり