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50 栗生純夫 ~冬を耐えつつじっと春を待つ~

しんしんと柱が細る深雪かな 栗生純夫(くりおすみお)

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 雪の積もった臥竜公園を歩いた。須坂市街地の南、春は桜の名所として人気が高い。

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 散策コースとなっている竜ケ池の桜並木は冬枯れした枝々を白く装い、半ば凍った水面に灰色の影を落とす。取り巻く臥竜山(471メートル)の松林は緑の葉をたたえ、その上にあたかもシラサギが群れるかのごとく、まだらに雪を載せている。

 真冬のたたずまいに浸っていると、足元から寒気がはい上がってくる。身震いして歩きかけた時、思い浮かんだのが〈しんしんと...〉の一句だ。今まさに寒のさなか、何もかもが凍(い)てついて春はまだまだ遠い日々である。

 〈しんしんと 柱が細る〉。ここでこの句はいったん切れる。ほんのわずか、少しの間を置き、次の下5句〈深雪かな〉に続くのだろう。

 きりきり体の奥までさいなむ信州の厳しい寒さだ。柱までが細るかのように感じる。加えてすっぽりと、深い雪に閉ざされた北信濃の一帯である。

 家を支える柱、それらの家々を深く覆い尽くした一面の雪景色。二つの光景が目に浮かんでくる。柱は屋根の重みに、人は雪国の重荷に、じっと耐えて一冬を越さなくてはならない。

 
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1904(明治37)年4月26日、栗生純夫は今の長野電鉄須坂駅にほど近い東横町に生まれた。農業と繭糸商を営む神林助作の次男、本名を新冶という。

 十代半ば、家業に従事する傍ら俳句の道を志し、小諸市出身の俳人・臼田亜浪(あろう)と師弟の関係を結んだ。

 46(昭和21)年1月、自ら主宰する俳誌『科野』を創刊する。61(昭和36)年1月17日、56歳で没するまで通巻179号を数え、信州俳壇の中心的な役割を担っていった。

 同時に栗生は、生涯をかけて小林一茶の研究に打ち込んだ。俳句を始めたのも、一茶の作風に引かれたからだ。

 もう一つ、地域の文化活動にも力を注いでいる。門下から"須坂十哲"をはじめ多くの後輩を育てた。長らく信濃毎日新聞の俳句欄も担当した。土着の詩心を自らの生き方の基底に据え続けた人だ。

 51(昭和26)年6月24日、臥竜山公会堂で全信州俳句大会が開かれた。全県から約800句の詠草が寄せられている。栗生の存在抜きには考えられない。

 竜ケ池に架かる臥竜橋を渡った。突き当たった山際に栗生の句碑があるからだ。

 田植うるは土にすがれるすがたせり

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 "土の俳人"栗生の栗生らしさが最も際立つ代表作である。重圧に押しつぶされそうになりながらも、しっかり土に足を踏ん張り、北信濃の風土を生き抜いたのだった。

 〔臼田亜浪〕大正・昭和期の俳人。小諸町役場に勤めた後、17歳で上京。ジャーナリスト、政治家志望から俳句に転身し、俳誌『石楠(しゃくなげ)』を主宰、信州では高浜虚子の『ホトトギス』をもしのぐ勢いだった。
(2014年1月18日号掲載)

=写真1=雪化粧した臥竜公園
=写真2=栗生純夫の句碑