
1988(昭和63)年6月1日、国内候補都市に決定。89(平成元)年6月6日、閣議了解。90年6月14・15日、衆参両院で長野五輪招致決議。そして91年6月15日、英国のバーミンガムでのIOC(国際オリンピック委員会)総会で決戦へ―。
6月は長野にとって縁起の良い月であり、このころは「ホップ・ステップ・ジャンプ。皆さまのご支援でゴールインしよう」と市政報告会などでお話しすると、結構受けたものです。
決戦を控えた91年5月には、千葉県の幕張メッセで世界卓球選手権大会が開催されました。この大会の前に、荻村伊智朗国際卓球連盟会長の依頼で、韓国・北朝鮮の統一合同チームの合宿練習を長野運動公園内の長野総合体育館で受け入れました。
臨時列車を用意
大会では、女子団体で統一チーム「コリア」が見事、優勝しました。今と違って両国には雪解けムードがあり、長野市も協力して喜ばれました。このことは昨年、『ハナ~奇跡の46日間』として映画化されています。
世界卓球選手権大会には、IOCのサマランチ会長も出席することが決まり、その際に長野も視察していただくことになりました。会長からは事前に「長野の準備状況を見て知事や市長と話し合いたいので、大勢で出迎えるようなことはしてほしくない」との注文がありました。
大会は5月4日から6日まで開かれ、会長たちの視察は7・8日の2日間でした。サマランチ会長のほかに、ペイン・マーケッティング部長、フェリー・スポーツ部長、キダニー・アドバイザー、アニー秘書、それに随行のメディア関係者など約30人を迎えることになったのです。
長野新幹線はまだ開通していなかったので、当初は信越線の座席を人数分確保する計画でした。しかし、各駅での歓迎に応えるために停車する必要があり、結局、JRにお願いして1車両だけの臨時列車を用意。軽井沢、小諸、上田、戸倉の各駅で停車し、長野も含め合計約2000人の皆さんに小旗で歓迎してもらいました。
臨時列車は、「お召し列車」などと批判する声もありましたが、いろいろな都合を考えると、その方が良かったといえます。長野では、長野バスターミナル会館内のオリンピックセンターや善光寺にご案内し、市民団体主催の歓迎パーティーに出席していただき、長野の熱意を感じ取ってもらいました。
同級生に助けられ
日程の都合で翌日は松本へ行き、松本空港から関西空港へ向かう慌ただしい日程でした。用意した小型のターボジェット機は、長野高校で同級生だったトヨタ自動車の堀籠(登)(と)(喜)(き)(雄)(お)常務取締役に面倒をみていただきました。
当時、小型ターボジェットはトヨタとソニーが所有していました。堀籠さんに電話で利用させてもらえないか打診し、「ただしガソリン代ぐらいしか払えない」と言うと、豊田章一郎社長に相談するとのことでした。
しばらくすると堀籠さんから電話があり、「社長の承認をもらったので、お使いください」とのことでした。ここでも友人に助けてもらい、感謝しましたね。飛行機が松本空港を離陸し、あっという間に雲の中に入ると、無事に送ることができてよかったと吉村知事と握手し、肩の荷が下りた感じでした。
(2014年1月31日号掲載)
=写真=長野バスターミナル会館内のオリンピックセンターを見るサマランチ会長(右)