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13 家屋の残骸 ~つなぎ止めた縄が切れる~

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 犀口の普請所で十余日、日々千人前後の人夫に賄いと酒を出し、みそ汁も支給した。米は一人前、平均2合5勺で実質は3合の配給だった。他の支配地の者にまで支給し、役人も同じ賄いだった。酒は小市の塚田源吾が献上した。

 家がつぶれ仕事をなくし、穀を失った飢えた人間にとっては、何よりありがたいことであった。代官は代わる代わる出て指揮した。炊き出し場所は段野原の土手の上と、その横に穴を掘って釜を7つ並べて炊いた。

 この炊き出しはみな女衆の仕事だった。椀へ飯を盛り、みそや塩などを振りかけて出す。町方から急
 3月27日、恩田貫実子が普請所へ出張中のことであった。郡中横目役の綿貫新兵衛が参って「このような大変災の際に安閑と枕を高くして休んでいるのは余りにもったいない」と述べた。役に立たなくとも、山平林の堰堤(えんてい)の場所をひと目見たり、小市の御普請所も視察したりした上で、川中島の民に諭してやりたいと熱心に懇願した。

 藩に申し上げたところ「まことにけなげな志、そのようにせよ」との仰せであった。綿貫にそのことを伝えたところ、大変喜んで意気揚々と出発した。まず犀川と山平林の湛水(たんすい)の現場を見学した。驚くなかれ、そこには水没し流された数百軒の家屋の残骸が無数に浮かんでいたのだ。それを見て、綿貫が次のような提言をした。

 「堰堤に水が乗ったときに、この家の流木が一度に出口にひっかかれば、水勢が狂って憂慮すべき災害になるだろう。太い縄を用意して、それらの残骸をつなぎ止めるべきである。つなぎ止められなかった残骸は火を付けて燃やしてしまえば、害はなくなる。早速、実行すべきである」

 この提案は受け入れられ、山中出役の者がその作業を進めた。しかし、縄でつなぎ止めた残骸は引水のときに縄が切れて皆押し流され、絵に描いた餅となった。久米路の橋もつなぎ止めて置いたが、引水の時には流れ砕け、橋げたが各所に散乱してしまった。
(2014年2月8日号掲載)