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13 決戦を前に ~東欧で支持を訴え バーミンガム入り~

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 1991(平成3)年は、1月に米英を中心とする多国籍軍がイラクを空襲して湾岸戦争が勃発。6月には長崎県の雲仙・普賢岳で大火砕流が発生。8月にはソ連邦が崩壊するという激動の年でした。

 98年冬季五輪も、この年の6月12日から16日まで英国のバーミンガムで開くIOC(国際オリンピック委員会)総会で開催都市決定の「運命の日」を迎えることになりました。

 総会に先立ち、吉村午良知事、私、猪谷千春さん、岡野俊一郎さん、加賀美秀夫さん、吉田総一郎さんらは、それぞれの立場で各国のIOC委員を訪問し、長野への投票をお願いしてバーミンガムへ向かいました。

  共産圏を実感 
 私の担当は旧東ドイツのハインツ委員と、ポーランドのレチェク委員です。まずワルシャワに到着し、民主的選挙で選ばれ国民的人気の高いワレサ大統領の官邸近くのホテルで、レチェクさんに長野支持を訴えました。

 続いてベルリンで、ハインツ夫妻にお会いしました。89年11月に東西を分けたベルリンの壁が壊され、東欧に民主政権が次々に誕生していた時期です。レチェクさんもハインツさんも「今後、自分の立場はどうなるか分からない」と話し、大変不安そうでした。

 ドイツでは当時、民衆の力で取り払われたベルリンの壁のれんがのかけらが1片500円くらいで売られていました。私も「歴史遺産」と思って買い求めました。東ベルリン空港は電気も暗く、倉庫のような建物だったのに対し、西ベルリン空港はきらびやかなネオンに彩られ商品もあふれており、共産圏と自由圏の違いを実感しました。

 185人に上った長野招致団のうち、主要メンバーは理事会前日の9日にはバーミンガムに到着し、それぞれの役割分担で活動を開始していました。12日に総会の開会式があり、エリザベス女王のスピーチはさすがに素晴らしいキングスイングリッシュでした。

 その夜は音楽会もありましたが、私はホテルのロビーに待機して委員に長野支持を訴えるつもりでした。すると音楽会から帰ってきたらしく、セネガルのケム・ムバイ副会長が1人で食事をしていました。「ご一緒できますか」と尋ねると、にっこり「どうぞ」と言うので、私も食事を注文して話し始めました。

  旅費問題が浮上
 ムバイさんは「プレゼンテーションが極めて大事だから、委員の心に訴えるように話しなさい」とアドバイス。「ライバル都市は『長野には施設がない』と言っているけれど、98年に間に合えばよい」「私の妻も長野だと言ってるよ」と心強いお言葉をいただきました。

 最後に、やおら私の手をとって「セイムカラー」と言うので、何だろうと思っていると、「ユーはイエロー、ミーはブラック」と言って笑うので、そうか同じ有色人種なんだと納得して「サンキュウ」としっかり握手しました。

 このころから「長野は極東で遠いので、発展途上国の選手団には旅費がかかりすぎる」という声が強くなり、その問題への対処が大きな課題となりました。アトランタの例もあり、「飛行機のチャーター便を用意するくらいはよいのでは」というIOC上層部の意見をめぐって、種々検討を重ねました。

 チャーター便は当時、1機6千万円ほどかかるとのことで、本番のプレゼンテーションでどう表現するか、ぎりぎりまで議論しました。
(2014年2月8日号掲載)

=写真=ブランデンブルク門の前の売店で。ベルリンの壁の破片が売られていた
 
塚田佐さん