
善光寺七清水の一つ「傾城清水(けいせいしみず)」は、湯谷地区北部の湯谷公会堂と昌禅寺の門前に近い住宅街にある=写真。
隣に住む女性は「私が嫁に来た昭和30年ころは、炊飯、洗濯、風呂など、清水がすべての生活用水だった。バケツやおけで運んだ。けれども上水道を引いた30年代後半からは、蛇口をひねればよい便利さに負けて、清水は『水たまり』になってしまった」と振り返る。由緒を惜しんだ夫がコンクリートで整備保存したという。
水道組合の解説板には「ここは戸隠道と北国街道の岐路で、遊女(傾城)が善光寺を参拝、越後へ帰る途中、この水で元気をつけた」と記されている。調べてみたら、江戸吉原の名跡・高尾太夫の逸話につながった。
三浦屋が抱えた遊女・高尾太夫は前後11人あり、10代の榊原高尾(通称・越後高尾)は姫路藩主の榊原政岑(まさみね)に落籍された―と、広辞苑にある。
江戸中期、財政再建のため節約を号令する徳川吉宗の幕政時代だ。姫路15万石の殿様だった政岑は、即刻隠居謹慎。1741(寛保元)年のことだ。後継ぎの息子・政永は越後高田(上越)に国替えとなり、政岑も同行したので高田に墓がある。
大名をパトロンに吉原で権勢をふるうか、姫路の殿様夫人として悠々自適の生活を送るか―だった高尾の予定は水の泡と消えた。吉原は江戸文化の華であり、今日の芸能界でいえば高尾は大スターだ。スキャンダルは各地に広がり、善光寺町でも憶測に沸いた。

「江戸から高田なら、中山道・北国街道を歩いたはずだ」「それなら善光寺に参拝、仏の加護を祈ったに違いない」「供も同行して、名産品や名水を楽しんで物見遊山の観光旅行だったろう」...。史実をベースによくできたストーリーだ。
水は命と生活の基盤だ。とりわけ地中からこんこんと湧いて絶えない清水は、不思議であり、神仏の司るものだった。村落の清水は、現世とあの世の接点と認識され、生命の聖地として信仰された。かつて、湯谷の人々にとって、傾城清水は祈念碑だったともいえるだろう。
中世史が専門の笹本正治信大教授(副学長)は「古代から一般に遊女(あそびめ)は死者を慰める巫女だった。清水は冥界、つまり死者世界とこの世をつなぐものだった」と解説する。
善光寺信仰をPRするには絶好の材料。今日、境内には「高尾灯籠」が本堂裏と仁王門脇に2基ある。建立者は三浦屋だ。吉原の大店(おおだな)も、吉原を宣伝するのに、善光寺は役に立つという認識があっただろう。
観光情報を口コミで広げ、ブレークすれば多大な効果がある。「一生に一度でいいから、浅草の観音さんに詣でて、吉原での精進落としは高根の花だが、花魁道中なんぞ見てみたいものだ」といったところだったろうか。
(2014年2月1日号掲載)