
飯山市のJR飯山駅を出ると、すぐ左手に真っ黒な仁王門があり、木造黒塗りの仁王像2体が鎮座している。仁王門は2012年11月に新築されたばかり。北陸新幹線の飯山駅開業を控え、行政や観光関係者の間からは「観光客がたくさん来るよう、仁王さんに祈るばかり」という声も出る。
仁王像2体は明治45(1912)年から大正7(18)年まで、長野市の善光寺仁王門跡に臨時に建てられ、近代の門前ドラマの証言者でもある。
明治24(1891)年は善光寺にとって厄災の年だった。5月に東之門町から失火、伊勢、岩石、元善町一帯200棟を焼いた。翌6月には、西之門町からの失火で桜枝町から院坊の大半、大本願、城山小、仁王門まで約500棟が焼けた。
信越線の全通を明治26(1893)年に控え、門前町が再興できるかどうかの時。「これ以上の厄災を防ぐには、皆の決意が肝心だ。寺の門番であり、守護神である金剛力士(仁王)を造り直して、一致団結の柱にしよう」という一山の願いに、山形村の富豪・永田兵太郎が寄付を表明した。今の物価換算だと、数十億円に上るという。
制作は、当時すでに高名だった高村光雲(1852~1934年)が引き受けてくれたが、巨大な彫刻はおいそれとはできない。光雲に協力を約束した飯山出身の彫刻家・滝沢天友は急死。仁王像再建は頓挫した。

その後立ち上がったのが仏壇の町・飯山の仏師たちだ。三ツ井小一(天友の兄)、清水和助らの名が残る。飯山城跡にあった西本願寺の説教所「おたや」に集まり、1カ月余で造り上げ、明治45年の御開帳に間に合わせた。木造の上に和紙張り、黒漆塗りという独特の工夫を凝らした。
2像を覆う社殿を造る余裕はなかったが、風雨に耐え「露天の仁王」として門前町と参拝者を睥睨(へいげい)した。仁王門が完成したのは大正7年、光雲と弟子・米原雲海による現在の名作が搬入されたのは8年になってからだ。
お役御免になった旧像は市内田町の晋斉寺に引き取られたが、本堂に入りきらず、軒下に放置された。その後、安庭の真竜寺に保管されていた。そして、飯山市が歴史的記念物として2010年に譲り受け、仏壇職人らが丁寧に修復。立派な門に収納され、帰郷を果たした次第だ。
7年間とはいえ、苦難の時代に善光寺と門前町を守り切った「黒塗り仁王」の守護力は尋常ではなかろう。素人目には木偶(でく)とも感じるが、善光寺の御利益と飯山仏師の気概を伝えて余りある。
(2014年2月15日号掲載)
=写真=明治45年の御開帳のときに建てられていた仁王=長野市発行「写真に見る 長野のあゆみ」(1977年8月)