秋山熊曳(ひ)き唄
アー苗場山頂で 熊獲ったぞ
(ヨーイトナー ヨーイトナー)
アー引けや押せやの 大力で
(ヨーイトナー ヨーイトナー)
アーこの坂登れば ただ下る
(ヨーイトナー ヨーイトナー)
アー爺様(じさま)も婆様(ばさま)も 出て見やれ
(ヨーイトナー ヨーイトなー)
(以下略)
◇

今ごろ、苗場山の山頂は、すっぽりと深い雪に埋もれている。標高2145メートル。豪雪地帯で知られる下水内郡栄村の秘境、秋山郷の東外れに位置し、新潟県湯沢町と境を接する。
一昨年、暑い盛りの8月下旬、秋山郷の小赤沢から登った。急坂で足がもつれたり、岩場を鎖に頼ったりしながら、汗まみれでたどり着いた頂上には、広々とはるか遠くまで高層湿原が広がっている。
湿原を彩る高山植物の間には、大小無数の池が点在する。その上に延々と続く木道...。それらすべてが春まで雪の下だ。雪の原に変わった山頂は、緩やかに起伏し、まぶしく輝いていることだろう。
そんな苗場山で猟師たちが熊を仕留め、雪の上を里まで運ぶ際、景気よく喜びの声を張り上げたのが「秋山熊曳き唄」だ。雪中に分け入って難儀の連続、命懸けの狩りに成功した、いわば凱旋(がいせん)の歌である。

〈苗場山頂で熊獲ったぞ!〉 山に生きる男衆の誇りが、ほとばしり出ているではないか。
〈爺様も婆様も出て見やれ〉 貴重な山の幸をみんなで分け合おうとする地域社会の伝統、心意気が、ほの見えてくるではないか。
1964(昭和39)年に栄村が発行した『栄村史堺編』に「熊とり」と題した項がある。そこには〈山田清蔵翁の話によると〉の書き出しで、熊狩りの様子が詳しく紹介されている。
まず、熊が冬眠していそうな山の岩穴などにあらかじめ、必要な道具や食料などを運び入れておく。ここに寝泊まりしながら熊の居場所を探して歩く。
冬眠している穴が見つかれば、木を切って穴の周りを囲う。そのうえで熊をおびき出し、囲った木に前足をかけて立ち上がったところを槍(やり)で突いたり、銃で撃ったりした。
江戸時代後期、越後・塩沢の商人で随筆家の鈴木牧之も、雪国の暮らしぶりを描いた『北越雪譜』の中で、上信越地方の熊狩りに触れている。

牧之が注目した1つは、胃腸薬の原料として高価で取り引きされる胆嚢(のう)、つまり熊の胆(い)だった。〈雪中の熊胆はことさらに価貴し〉。これを求めて秋田などから猟師が、猛犬を連れてやってくるのだ、と。
秋山郷の熊狩りもこの流れをくんでいるとされる。そう考えれば秘境とはいっても、決して閉ざされた社会とは違う。熊曳き唄の持つおおらかさ、明るさの根源かもしれない。
〔秋田マタギ〕熊やカモシカなど大型獣の狩猟を生業とした人たちのことをマタギと称する。東北地方、なかでも秋田に多かった。旅先の秋山郷などに住みつき、技を伝えている。
(2014年2月1日号掲載)
=写真1=木道の続く苗場山頂
=写真2=湿原を小池が彩る