須坂小唄
野口雨情作詞
中山晋平作曲
山の上から チョイと出たお月
誰れを待つのか またれるか
ヤ カッタカタノタ
ソリャ カッタカタノタ
誰れも待たない またれもしない
可愛(かわ)いお前に 逢(あ)いたさに
ヤ カッタカタノタ
ソリャ カッタカタノタ(以下略)
◇

旅に出たくても現実には難しい。要は気持ち次第、一歩家を離れただけでも、旅人の気分になれますよ...。そう江戸時代の俳人、与謝蕪村の一句が教える。
門を出(いづ)ればわれも行人(ゆくひと)秋の暮れ
須坂市へ小さな旅をした。「須坂小唄」で歌われる〈須坂よいとこ〉の歌詞にひかれてのことだった。粋な小唄を生んだ「生糸の町」の面影が、そぞろ旅心を刺激する。長野電鉄善光寺下駅を13時55分発の電車に乗る。
ホームで待つ間が寒かった。車内の暖房で体が温まり、ついうとうとしてしまう。ハッと目覚めた時には遅い。乗り越した。次の北須坂駅で切符を回収する若い運転士さんに、その旨を告げる。すると「須坂駅に戻るにはここで25分も待つことになる。寒くてつらいでしょ。三つ先の桜沢まで行けば、ほどなく上り電車に乗り換えられますよ」。この日出合った最初の親切に感謝し、それに従った。
須坂駅に戻り、駅前の観光案内所に寄る。製糸業が盛んなころの繁華街は今の「蔵の町並み」であったこと、往時をしのばせる道沿いの見どころなど説明が手際よい。うれしかった二番目の親切だ。

さて、肝心の「須坂小唄」である。1981(昭和56)年3月発行の『須坂市史』にこうある。
製糸工女が糸をひきながら歌う中には、卑猥(ひわい)なものも多い。これを改めたいと山丸組が工場唄の作成を作曲家の中山晋平に依頼する。
21(大正10)年の春、中山は作詞家野口雨情を伴って訪れた。23(大正12)年12月「須坂小唄」が完成。囃(はやし)のカッタカタノタは、糸枠の回転する音であり、「須坂小唄」は製糸業全盛期の文化的遺産、だと。
明治から昭和初めまで須坂は、南の岡谷に次ぐ北の製糸中心地だった。とりわけ越寿三郎が創業した山丸組は一時期、須坂の生糸生産高の半分以上を占めたほどだ。その工場唄が、須坂市民の唄になっていったのだった。
蔵の町並みでは、優雅で力強い石積み「ぼたもち石」が目に入った。現在はクラシック美術館となっている古い屋敷だ。町並みから少し離れて旧越家がある。

旅人をもてなす「ふれあい館まゆぐら」。ここでは今年90歳というボランティアの女性がにこやかに、お茶と漬物のサービスをしてくれる。その話の楽しさに須坂よいとこを再び実感したのだった。
〔ぼたもち石積み〕丸い自然石の形を生かし、石と石との間を密着させて積む技法。難しくて手間がかかる。受け継ぐ石工は現存せず、生糸で繁栄していたころを象徴する一つだ。
(2014年2月15日号掲載)
=写真1=往時をしのばせる蔵の町
=写真2=ぼたもち石積みと