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69 赤松小三郎 ~幕府「指導者に迎えたい」~

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 「開国進取」を唱えた明治維新の先覚者、佐久間象山に次いで、「議会政治」を訴えた上田藩士の赤松小三郎=写真(上田市立博物館提供)=の業績が見直されている。郷土愛を高める狙いで、既に小三郎の冊子も発刊されている。

 2013年1月に刊行された冊子は「木町に生まれた幕末の先覚者 赤松小三郎」で、A4判の30ページ。赤松小三郎木町顕彰会が編集した。最初は150部を印刷したところ、「分かりやすい」と評判となり、300部を増刷したという。

 冊子によると、小三郎は上田藩士、芦田勘兵衛の次男として1831(天保2)年4月4日、上田の木町に誕生。幼名は清次郎。24歳の時、赤松家の養子となる。

 小三郎は子どものころはわんぱく小僧。負けず嫌いで、目端が利き、10歳で藩校の明倫堂に入学。学問がよくでき、特に数学が得意。

 1848(嘉永元)年、18歳の時、大志を抱き江戸に出て数学、天文、測量、暦学、地理、蘭学などを5年間学んだ。

 1863(文久3)年、松代藩士の娘「たか」と結婚。妻の父親が象山と知り合いで、20歳も年上の象山との交流が始まった。冊子の19ページには「結婚と佐久間象山」と題して、象山と小三郎が本の貸し借り、手紙のやりとりをするほど、仲良しだったと記述している。
 
 小三郎は上田藩に新式兵術の研究を怠っている点や、このままでは世の中から取り残されてしまうとして藩に意見書を提出。だが、身分の低い小三郎の意見は用いられなかった。

 憤慨した小三郎は再び江戸に出て、英国兵法を学び、『英国歩兵錬法』を出版。この本により、我が国の近代兵制の基礎が築かれたといわれている。

 幕府は小三郎を幕府の学校の指導者として迎えたいと上田藩に交渉したが、「藩で必要だから」と拒絶。上田に帰るよう命が下った。

 当人は帰郷しようとした直前、1867(慶応3)年9月3日、倒幕に傾いた門弟の薩摩藩士、桐野利秋らにより京都で暗殺された。37歳の若さで、象山の遭難から3年後の悲劇だった。
(2014年2月8日号掲載)
 
象山余聞