
「善光寺のそっくりさん」と呼ばれている南照寺(なんしょうじ)のことを、長野市内の人たちはあまり知らないだろう。中野市のメーンストリート、中町通りに続く大門町にある。
本堂が撞木(しゅもく=鐘を突くT字形の道具)造りで、巨大な石柱には堂々と「川東善光寺」と刻まれており、並々ならぬ誇りが感じられる。地元の人たちが「川西善光寺」と呼ぶ長野市の善光寺とそっくりだ。川は千曲川のことであり、西と東で善光寺が並立していることになる。
なぜ、そっくりさんが創建されたのか。そこには中野の由緒につながる歴史がある。
南北朝時代、中央政権である足利氏と結び、中野を中心とする北信濃で勢力を拡大したのが高梨氏だ。須坂の豪族、井上氏も同族。室町時代から戦国時代にかけて、高梨氏は強大な領主となった。
戦国武将にとって、武力はもちろん、庶民の信仰する神仏を奉ずることも勢力誇示の手段だった。善光寺仏を争奪して加護を頼んだ上杉氏、武田氏、豊臣秀吉の史実は有名だ。
善光寺仏が中野に移ったのは2度。上田近辺の村上一族に対抗していた高梨氏が移し、如来堂を建てた。この時は領内に悪疫が流行したので、如来を元の長野に戻した。
2度目は、武田氏に追われた村上氏が越後に逃れた時、高梨氏は長野の善光寺仏を中野に移し、如来堂を再建した。ところが、武田氏の進攻で、高梨氏も如来堂を放置して越後に逃げ、その時には仏像も奉じた。上杉氏が移封された米沢(山形県)に残る諸史料からの伝承だが、はっきり裏付けるものはない。
南照寺は江戸時代の1655(明暦元)年に建立された。中野は天領だったので、代官の援助が大きい。江戸の真言宗寺院の系列になり、隅田川かいわいの本所で、仏像の出開帳を開くまでになった。
長野の善光寺は「住職が別当を名乗るなど、コピーの分際でけしからん」と幕府に訴え出たものの、「川東の開帳仏は川西の写しではない」という寺社奉行の裁許で敗北したという逸話もある。
南照寺にあるのも典型的な善光寺三尊像で、中央が高さ34センチ余り。左右の勢至、観音菩薩も同じ高さだ。南北朝時代の作とみられる。近くを流れる夜間瀬川の洪水でたくさんの五輪塔が発見され、境内の前庭に集められている。
車なら志賀高原や湯田中の往復の際、5、6分の寄り道で参拝できる。規模は小さいながら、よく整備された境内の風景と本堂のそっくりさんぶりに脱帽する。
(2014年3月15日号掲載)
=写真=撞木造りの屋根が長野の善光寺にそっくりな中野市の南照寺