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大阪・兵庫14 松風(まつかぜ)~名匠3人の苦心作~

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 〈あらすじ〉旅の僧が須磨の浦で、松風村雨の旧跡という松を見て、供養する。折から2人の海女が汐汲(しおく)み車を引いて通り掛かったので、旧跡を弔ったことを話すと、女たちは急に涙ぐみ、在原行平(ありわらのひら)に愛された、その松風と村雨の幽霊であることを打ち明ける。
 2人は行平の愛を受けた昔を懐かしみ、舞を舞った後、弔ってほしいと言って姿を消す。僧が夢から覚めると、松に寂しく風が吹くばかりだった。

 姉妹の恋人の在原行平は、平安時代前期の貴族で、業平(なりひら)の兄である。浮名を流した弟と違って和歌や学問に優れ、官吏として順調に出世した。が、天皇の怒りに触れて、3年ほど須磨に流された。このことは古今集の「わくらはに問う人あらば須磨の浦に 藻塩垂れつつわぶと答えよ」(もし私の消息を尋ねる人がいたら、須磨の浦で漁師のような生活をして、わびしく暮らしていると答えてください)との行平の和歌に見える。

 源氏物語の作者の紫式部がこれに興味を抱き、「須磨」の巻には、光源氏が逃避した所を「おわすべき所は、行平中納言の藻塩垂れつつ侘びける家居近きわたりなりけり...」と書いている。この一文は前回の「須磨源氏」で紹介した源氏寺碑の裏面に刻まれており、「須磨」の巻は、行平配流をモデルとしたと推測されている。

 謡曲はこれらの和歌や源氏物語と、地元に伝わる松風伝説を織り交ぜて創作された。田楽の名手だった亀阿弥(きあみ)が最初に「汐汲」を作り、観阿弥(かんあみ)が「松風村雨」と改め、さらに世阿弥が「松風」に仕上げた。3人の名匠が手を加えた苦心の作品だ。世阿弥は「事多き能」といい、自身も傑作であることを認めているという。

 謡曲の舞台は、神戸市須磨区離宮前にある松風村雨堂。JR「須磨」駅からバスで「村雨堂」で下車してすぐの現光寺に近い。姉妹が住んだ住居跡とされ、狭い敷地内に庵室や観音堂、行平が形見の衣を掛けたという「衣掛けの松」の切り株小屋があり、その3代目といわれる松も細々と植わっていた。

 松風村雨堂から少し離れた所に多井畑(たいのはた)という集落がある。姉妹は当地の村長の娘だったといわれ、ここに姉妹の小さな五輪塔の墓があった。仲良く並んで、行平が去った都の方向をじっと見つめているのは、いじらしい。

 姉の松風は、形見の烏帽子、狩衣を身にまとい、松を行平と錯覚して寄り添い、狂おしく恋慕の舞を舞う。こんなにも慕われた行平は、どんな思いで愛し、別れてきたのだろうか。行平本人が謡曲に登場していないので、分からない。
(2014年3月15日号掲載)

=写真=観音堂(右)と切り株小屋
 
謡跡めぐり