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053 和泉式部 ~命の瀬戸際で歌う恋しさ~



あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな  和泉式部

                    ◇

 〈私は間もなく死んでしまって、この世からいなくなるでしょう。ですから死んだあと、あの世での思い出になるように、せめてもう一度だけあなたに、どうしてもお会いしたいのです〉

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 哀切極まる真情の込められた歌であり、『百人一首』に登場する。作者和泉式部は平安時代の女流歌人。権勢をほしいままにした藤原道長の娘、中宮彰子に女房として仕え、才色兼備の誉れも高い。

 それがなぜ、京の都から遠く離れた山深い信濃路詩紀行の題材になるのか―。そこがまた和泉式部という個性の強烈な人物がはらむスケールの大きさ、さらには、謎めいた生涯ゆえの魅力でもある。

 話は移って諏訪郡下諏訪町に伝わる「かなやき地蔵」伝説だ。粗筋を牛丸仁氏の『諏訪盆地の民話』(信濃教育会出版部)に借りると―。

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 諏訪湖の東南、中金子村に生まれた娘カネは、幼くして両親に先立たれ、下諏訪の問屋に引き取られました。つらい下働きに耐えながらも、夜になると父母が恋しくてなりません。そっと抜け出し、道端のお地蔵さんにご飯粒を供え、身の上話をしては寂しさを紛らわすのでした。

 ある晩、ご飯を懐に入れたところを見つかり、焼け火箸を額に押し付けられます。あまりの痛さに外へ飛び出し、地蔵にすがりつきました。すると痛みは消え、代わりに地蔵の額が傷ついていました。

 数年後、都の位の高い人が通り掛かり、カネの賢さを見抜いて一緒に帰ります。やがて都で学才を磨き、成長したカネこそ和泉式部だ―というのです。

 それから300年後の鎌倉時代、各地を見回っていた武士の北条時頼が、京都嵯峨野の草むらで「下諏訪に連れて行ってくれ」と、悲しげに呼ぶ声を耳にしました。カネが持ってきた地蔵です。無事に戻って来迎寺(らいこうじ)に祭られ、「かなやき地蔵」として慕われることになりました。

 いかにも伝説らしく、筋書きがよくできている。地蔵信仰の味付けも効いている。何よりこの話が、和泉式部と信州とを結び付けてくれることがうれしい。

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 諏訪湖の北、JR下諏訪駅前の通りを経て諏訪大社下社秋宮に通ずる道を左にそれ、旧中山道をたどる。本陣だった岩波家の立派な門構えを眺め、右に枝分かれした道を進めば、参道が現れて来迎寺の境内へと導かれた。

 なるほど地蔵堂がどっしり構えている。その前には、和泉式部の歌碑が立っている。千年もの歳月と京都までの長い道のり...。はるかな時空を超え、平安の才女を親しくしのばずにはおれなかった。

 帰宅してこの一首が採録された『和泉式部集』を開いてみる。そこからは、孤独な中にゆらめく女性の情念が立ち上ってきた。伝説的な歌人の底力に違いない。

〔和泉式部集〕多彩な恋愛経験で知られる和泉式部の個人歌集。11世紀の宮廷女流文学全盛期を飾る代表作の一つに数えられる。もう一つの『和泉式部日記』は歌物語風の作品。
(2014年3月1日号掲載)

=写真1=参道からの来迎寺
=写真2=境内の和泉式部歌碑
 
愛と感動の信濃路詩紀行