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054 宮原茂一 ~人の悲しみの根源に触れて~

一本のポプラが丘に立ちてゐて悲しみは垂直に空より来たる 宮原茂一 

       ◇

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 かれこれ40年、通り掛かるたびに必ず見上げてきた高木がある。長野市城山公園の動物園北側に位置する招魂社境内のポプラだ。

 太い幹には、深くえぐられたかのように、あるいは高く盛り上がるかのように、幾筋もの凹凸が刻まれている。途中から10本ほどに太く枝分かれし、それぞれに細い枝を無数に空へ向けて伸ばしている。

 一目見て老木であることが分かる。しかし春には、ほうきそっくりに枝を広げた巨大な樹形が、淡く黄緑色に芽吹いて命を躍動させる。仰ぎ見て生命力の強さに感嘆する。

 圧巻はやはり、秋の黄葉だろうか。イチョウと競い合うかのように、全身を黄色に染め上げる。落ち葉の時季になれば、地面が黄金色のじゅうたんを敷き詰めたと言ってもよいほど、華やかな装いに変わる。そして静かに土へと返っていく。

 こうして見慣れた存在になっていたからだと思う。〈一本のポプラが丘に...〉の一首と出合った時、自然にこのポプラの姿が現れてきた。実際にここが歌の舞台というのではない。そんな思いにさせられるというにすぎない。

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 しかし、それ以来である。ポプラを同じように見上げ、言い知れぬ悲しみが迫り来るのを抑えられない。正面の階段を上った左手の向こう、まさに丘の上に立っている。

 〈悲しみは垂直に空より来たる〉

 このとおりではないだろうか。どんな悲しみなのかは、ここでは分からない。でも人間の悲しみは、いきなり空から垂直に降り注いで来る。いや応なく、拒む余地もない。それをずばり端的に言い当てている。

 作者の宮原茂一は1906(明治39)年1月23日、上水内郡古牧村上高田(現長野市)に生まれた。10代半ばで「信毎歌壇」の選者、太田水穂に見いだされる。太田の率いる歌誌『潮音』の有力な歌人として一翼を担うと同時に、自らは『白夜』を創刊し、編集に携わった。61(昭和36)年10月、その選歌中に倒れ、55歳で没している。

 城山公園や善光寺など、直下に長野市街地を見下ろす大峰山歌ケ丘の歌碑には、代表作のもう一つが刻まれた。

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 秋風に吹かるる石は
 草のなか石に
 こころのなし
 と誰か言ふ

 冷たい石にさえ温かな心を通わせた個性の強い歌鏡が、鮮明に出ている。己の存在にこだわり、「個の追求」を掲げ続けたのだった。

 まれにみる大雪のあと、展望道路沿いに歌ケ丘へと足を延ばす。丸みを帯びた碑は、深い雪の中にひょう然と立ち、早春の明るい白日を浴びている。そのまま坂を下り、ポプラの方へと向かった。

 歩きながら、ふと考える。「悲しみ」とはあらゆる命への「慈しみ」ではないのか―と。

 〔ポプラ〕 ヤナギ科ヤマナラシ属の樹木の総称。一般的には欧州原産のセイヨウハコヤナギを指す。高さ30メートルにもなる勇壮な姿が好まれ、公園や広い通りの街路樹に植えられる。
(2014年3月15日号掲載)

=写真1=招魂社境内のポプラ
=写真2=歌ケ丘に立つ歌碑
 
愛と感動の信濃路詩紀行