記事カテゴリ:

159 如是姫 ~初代像は善光寺本堂西に~

159-rekishi-0405.jpg
 駅前にその地ゆかりの像が立っていることは少なくない。水戸なら黄門さん、甲府は武田信玄、岡山なら桃太郎、柴又なら寅さん...。わが長野駅前の如是姫さんの像は、駅前整備で日本忠霊殿に避難中(非公開)だ。

 「初代の如是姫像はとても写実的で、すてきだったそうですよ」駅前に住むお年寄りの話だ。今の2代目もインド風だが、若づくりの姿態で悪くない。富山県の彫刻家・佐々木大樹作の2代目が復活したのは昭和23(1948)年だ。初代は同19年に金属類の供出命令で撤去された。

 初代はどんな作風だろうかと探したら、2、3の文献口絵にあった。明治41(1908)年に善光寺の本堂西に建立され、昭和11(1936)年に駅前へ移転。香華・水盤を両手で奉げているのが特徴だ。リアルで理知的な口元で年増美人だ。作者の竹内久一のモチーフは如是姫縁起だろう。

 大金持ちだが、けちで不善な月蓋(がっかい)長者の娘・如是が不治の病になり、阿弥陀仏にすがることによって救われるエピソードは「請観世音経(しょうかんぜおんきょう)」というお経が元になっている。

 ところが実際の請観世音経では、長者は国民の病気治癒を願うが、娘の話は登場しない。如是は、鎌倉時代以降に善光寺縁起のメーンストーリーに加えられた―というのが国文学者らの見解だ。

 だから、これほど有名な女人名が釈迦の経典や仏典にも、歴史事典や広辞苑にも出てこない。仏の御利益は具体的な個人になぞらえると、印象が強くなる。信仰のPRマン「善光寺聖(ぜんこうじひじり)」が頭をひねって創出した由緒だ。

 「如是」は「かくのごとし」という意味だ。「如」は仏であり、宇宙の真理、「是」は肯定を表す。つまり如是姫は「プリンセス・オーケー」であり、人物ではなく仏教思想だ。諸経典の冒頭は「如是我聞(にょぜがもん)」と記され、「われはこのように聞いた」という意味だ。女性であるがゆえの苦しみから、女人こそ救われる―という教義は、ほかの凡百の寺とは違うところだ。

 だが、これに対する世間の空気は厳しい。「苦しみの出産、朝から晩までの炊事、洗濯、子育てから女性は解放されていない」「黙っていたら、女性は永遠に救われない」と。

 昨秋の彼岸、善光寺サミット講演では、会場のホテルに4、5百人が詰め掛け満員。講堂入り口まで車椅子で来た91歳の瀬戸内寂聴さんは、すっくと立ち上がり、歩いて登壇。「元気の秘訣は、ステーキ大好き」と語り、会場を沸かせた。「とてもかなわない」と、現代の如是姫さんに男性たちは脱帽した。

 来年、如是姫像は駅前広場に戻る。如是姫縁起を、反骨の元気姫に書き換える必要があるかもしれない。

(2014年4月5日号掲載)

=写真=善光寺の本堂西側に建てられた如是姫像(「元善町誌」から)
 
足もと歴史散歩