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160 難波堀江 ~仏像はどこで拾われたのか~

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 善光寺が凡百の寺でない理由は二つある。一つは仏教伝来の時の国家政策に絡み、もう一つは古代史の日本書紀に関わるからだ。

 平安後期に成立した日本の通史「扶桑略記」の善光寺縁起を要約すると、西暦550年前後の欽明天皇から推古天皇のころにかけ、朝鮮半島から仏教が伝来、諸豪族が賛否に分かれた。

 仏教が当時流行した悪病の原因とされて、賛成派の蘇我氏らが劣勢になり、反対派の物部氏により、仏像は難波堀江(なんばのほりえ)に捨てられた。その後、仏像は拾い上げられ、信濃に運ばれた...。拾って運んだ人物は本田善光(ほんだよしみつ)とも、若麻績東人(わかおみのあやひと)ともいわれる。

 この難波堀江は、善光寺信仰者にとって仏法受難の聖地だが、「それはどこか」の定説がない。巷(こう)説の一つは大阪市西区北堀江にある和光寺、もう一つは奈良県明日香村の向原寺(むくはらでら)だ。

 和光寺は境内に阿弥陀池があり、「信州善光寺如来出現之霊池」と石柱が立つ。大本願に連なる浄土宗の特別格の寺だ。寺伝では「元禄11(1698)年、新田開発の時、善光寺如来出現...元禄12年の創建」とある。徳川家から1千800坪余の土地をいただき、次の大本願上人が継ぐ時には事前にとう留する。

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 一方、向原寺は近鉄・飛鳥駅から定期バスで30分ほどの豊浦(とゆら)地籍にある。水田と畑が混在した静かな農村だ。境内右手に整備された四角な池があり、中央の島に小さい木造宮殿。傍らには「善光寺講」の標柱、本殿に「日本仏法最初の地」という石碑がある。

 飛鳥時代、朝鮮半島にあった百済国の聖明王が仏像・経典を朝廷に献じたのが552(欽明13)年。「霊験はどうなのか。試しにお前が祭ってみよ」と欽明天皇から言われた豪族、蘇我稲目は自宅の向原の宮を自寺とした。

 ところが「仏法など役に立たない」と、廃仏派の物部氏に焼き払われる。その後、朝廷有力者は仏教戦争に揺れる。このため向原寺の跡地は尼寺になったり、宮殿ができたり、有為転変したらしいが、複雑な史実に伝承が絡まり、よく整理されていない。

 戦後、数度の向原寺発掘で、数メートル下から立派な建物と推測される礎石が発見された。驚いたことに、飛鳥川や「大化の改新」の舞台である甘樫丘(あまかしのおか)は、徒歩20分ほどの場所だ。蘇我稲目、入鹿、馬子の豪邸があったとされる。善光寺縁起は史実と裏腹であることを痛感する。

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 私見だが、向原寺の難波池伝承は、善光寺信仰の隆盛におもねった後付けの感があり、なんともコメントのしようがない。訪れたのは年末だったが、老若の女性たちが列をなし、咲き始めた冬桜、ウノハナ、レンギョウを愛でていた。
(2014年4月19日号掲載)

=写真1=向原寺境内にある池。「難波池」と呼ばれる
=写真2=奈良県明日香村にある向原寺
 
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