久方の安茂里の里の花盛り花よりくれて花にあけ行く
浅井 洌
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市街地を見下ろす段丘の坂道を上った。やわらかな日差しが背中を押してくれる。
裾花川を挟んで足下は長野県庁という長野市安茂里の平柴。高台の一角を占める夏目ケ原浄水場の脇を抜け、民家やリンゴ畑の間の小道をたどった。
小一時間で童謡「夕焼小焼」の碑がある阿弥陀寺に着く。いかにも閑寂なたたずまいは"山のお寺"の風情にふさわしい。
ただし、今回はここが目当てではない。いわば幻の花景色を求めてである。かつて安茂里が「杏(あんず)の里」と呼ばれたころの面影を探してみたかった。
かなわぬことではある。けれども何より浅井洌の和歌が、鮮明に浮かび上がらせている。「久方の」は安茂里にかかる枕詞(まくらことば)であり、現実を超越した、はるかな世界をイメージさせる。

単に「花」といえば桜だけれども、この一首はアンズだ。今まさに安茂里はアンズの花の真っ盛り。淡い紅色の花の中に一日が終わり、そして一日が始まる―と歌い上げている。
1962(昭和37)年に信濃毎日新聞社の駆け出し記者になり、3月から4カ月ばかり、安茂里大門の農家に下宿した。そのころはまだ、あちこちの家の庭にアンズの巨木がそびえていた。
編集室で紙面づくりの責任を担い、一線記者を陣頭指揮するベテラン、「デスク」と呼ばれる先輩記者にアンズの花見を取材してくるよう言われたこともある。「画家が写生しているはずだから話を聞くんだぞ」などと指図されたものだ。
あらためて調べてみると、戦後間もない昭和22年からは、アンズの花を描いた絵を展覧する「花のパレット祭」が開かれるようになった。戦地から戻った人が花に包まれた故郷の姿に「国敗れて山河あり」の感動を抱き、発案したのだった。

地元、安茂里小学校の校歌では〈山の ふるさと 光は 満ちて/夢は ふくらむ 杏は ひらく〉と歌われている。昭和27年に子どもたちから図案を募集した校章に、アンズの花と葉が描かれている。
往時の「杏の里」を面目躍如とさせる材料は多い。既にそれを目では確認できないだけだ。幻の花風景を思い描きつつ、平柴から平柴台団地、さらに沢を一つ隔てた杏花台団地へと下っていく。
まず昭和30年代に杏花台、40年代に平柴台が、便利な近郊の住宅地として開発された。いずれも春には花盛りとなるアンズ畑だったところである。
帰途、妻科宮東の浅井洌旧居跡に立ち寄った=写真下。明治から大正期、長野師範の教師だった時代に暮らしたところだ。〈県歌「信濃の国」誕生の地〉の標柱が立つ。作詞者・浅井は、旧派に属する有力な歌人だったのだ。
〔旧派和歌〕古今集以来の伝統的作風を重んじる和歌。明治半ば、正岡子規らが近代的な文学芸術を目指して改革運動に乗り出し、それ以前の流派は「旧派」とされるようになった。
(2014年4月12日号掲載)
=写真1=かつてのアンズ畑に広がる杏花台団地