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057 蝶々 ~進取の気性が宿る高遠藩校~

  蝶々
         野村秋足(あきたり)作詞

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ちょうちょう 
ちょうちょう
菜の葉にとまれ
なのはにあいたら 
桜にとまれ
さくらの花の 
さかゆる御代(みよ)に
とまれよ あそべ
あそべよ とまれ
    ◇

 あれ、変だぞ。〈さかゆる御代に〉なんて聞いたことがない。〈花から花へ〉じゃないか...。たぶん、いぶかる人が多いことだろう。

 確かに1947(昭和22)年からは、小学1年生用の教科書に〈さくらの花の 花から花へ〉で登場する。だから今の世代の大方は、そう教室で習った。そして記憶し、親しんできた。

 ところが、それ以前、1881(明治14)年に文部省が出した「小学唱歌集 初編」では〈さくらの花の さかゆる御代に〉である。長く続いた徳川幕府の世に幕が下り、天皇の治世に移った時代の空気を反映している。

 王政復古の大号令の下、明治維新政府は富国強兵、文明開化の近代化策を推し進めた。1871(明治4)年に文部省を設立、翌年に学制を公布する一方、欧米に多くの留学生を派遣し、欧米からは多数の御雇外国人教師を招いた。

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そんな新しい教育の推進役を担った一人に、信州は伊那、高遠藩出身の伊沢修二(いさわしゅうじ)がいる。そしてその伊沢こそ、唱歌「蝶々」の実質的な生みの親である。

 伊沢は22歳で文部省に入ると、24歳の若さで愛知県師範学校長に任命されるほどの秀才だった。次の年には米国へ留学し、音楽教育家メーソンとの運命的な出会いをする。

 日本人にはなじみのない西洋音楽を、オルガンを使って基礎から仕込まれた。そして日本人に合いそうな曲に日本語の詞をつけてみるよう言われる。

 とっさに思いついた歌があった。師範学校長をしていた時、部下の国学者、野村秋足に集めさせたわらべうたの中に含まれていた「胡蝶(こちょう)」である。

 〈蝶々ばっこ 蝶々ばっこ 菜の葉に止まれ 菜の葉にあいたら この手に止まれ〉。こんな詞が、スペイン民謡ともドイツ民謡ともいわれるメロディーに、ぴったり合うのだった。やがて帰国した伊沢の教科書編集を通じ、唱歌「蝶々」に生まれ変わっていく。

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 信濃路を代表する桜の名所、高遠城址公園で、これまで何度か花見を楽しんだ。そのつど道路を隔ててたたずむ高遠藩校「進徳館」にも足を運んでみた。

 かやぶき平屋建てのどっしりしたたたずまいが、花に浮かれた気分をぐっと引き締めてくれる。古びた教場などを目にすると、勉学に励む先人たちのひたむきさが伝わってくる。

 進徳館で伊沢は11歳から学んだ。下級武士の10人兄弟の長男、貧しさを乗り越えながらである。志を高く懐き続け、子供たちの心の中にこそ、花から花へチョウを舞い立たせた。

 〔詞と詩〕欧米で作られた曲に日本のわらべうた、民謡などのことば、つまり「詞」を当てはめる。これを「填詞(てんし)」と称し、歌詞や作詞に「詩」ではなく「詞」を使う背景でもある。
(2014年4月26日号掲載)

=写真1=伊沢修二が学んだ進徳館
=写真2=菜の花
 
愛と感動の信濃路詩紀行