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82 共働学舎・宮島真一郎さん(中)

 女子中学生だったか、太りぎみで精気がなく、活発に体を動かすことはできなかった。食卓の醤油瓶が倒れて流れ出ても、見ているだけで、起こそうとしなかった。そんな子が小谷村の共働学舎にやってきた。

 「まさか、これがわが子か」
 半年ほどたったある日、同じような年齢の子たちが、田んぼの畦を走ったり、段々田んぼの石垣の上から飛び降りたりして遊んでいた。追いつ追われつ楽しそうだった。

 学舎創設者の宮島真一郎さんがこの女子中学生の両親を、子どもたちが遊んでいるのが見える位置に案内した。「あそこで遊んでいる子どもたちの中に、お子さんがいます。今、飛び降りたあの子がそうですね。」

 両親は驚いた。「これがわが子か。信じられない」と言うのだった。体が引き締まり、見るからに活動的だった。自分からは何一つやろうとせず、学校へも行けなかったのに...。

 苗を抜いたり、挿したり
 ある男の子は知的障害があった。何をしても遅かった。田植えの時「苗は3本ずつ植える」と教えられれば、本当に3本植えたかが気になり、ためつすがめつ、あるいは抜いたり挿し直したり。植える深さは中指の2節目くらいと教えられれば、本当にそう植えたかどうか気になり、何回も抜いては確かめるのだった。わずかな面積を植えるのに長い時間がかかった。

 「うるせえ」から「すみません」へ
 窃盗の前科があり、服役を何度も繰り返したというある少年は、何をするにもすばしこかった。屋根の上にいても下の小川にイワナを見つけると、サッと降りてその魚を捕まえてくるという早業の持ち主だった。

 寝食の全てを学舎の世話になりながら「ありがとう」のそぶりはなく、宮島さんに何か言われると「うるせぇ」の打って返しは常習だった。

 ある日、その少年が学舎からいなくなった。宮島さんは心当たりを手を尽くして探したが、分からなかった。夏が過ぎて秋、木枯らしの夜、宮島さんは部屋の窓下に人の気配を感じた。玄関を開けると、少年は寒さに震えて立っていた。見るからに飢えていた。「さあ、入れ」。少年は黙って入ってきた。

 宮島さんはお勝手で残り物を探し、おじやを作った。丼に盛って「さあ、食べろ」と勧めたその時だった。少年が絞り出すような声で「すみません」と言った。少年の口から初めて聞く言葉だった。宮島さんは「よし、これで立ち直った」と、語ってくれた。

 紹介した3人それぞれが、人間社会を構成する歯車の一つとして、掛け替えのない人材に成長したことは言うまでもない。

 各地から互いに見ず知らず、体験も個性も違う人たちが僻遠の地に集まってきて、一つ一つ灯をともす。強靱な恩愛の絆が和を結ぶ。その心棒に自律、良心を尊ぶ宮島哲学が貫かれている。
(2014年4月5日号掲載)
 
美しい晩年