
市民祭「長野びんずる」が今夏、44回を迎える。年ごとに工夫を凝らし、一大行事に発展した。長野市には江戸時代から、祇園(ぎおん)祭(通称・御祭礼)があったが、戦争で中断。1971年に市民参加のイベントとして誕生した。
門前の商工業者や市政関係者が知恵を絞った祭りのコンセプトは▽健康祈願の御利益▽びんずるの語呂が良い▽しゃもじをたたく音を生かす―だった。祭りの名前や由来、踊りの所作、演出...と、すべて善光寺ムードで格調高い。
例えば、踊りの最初の所作は、両手を交互に「ちょうだい、ちょうだい」をする。びんずるさんは食事を振る舞われるので、「ちょうだいします」と答えるのだ―といううがった解説もある。
踊りの振り付けは歌舞伎の名優で、映画やテレビでも活躍した岩井半四郎さんだ。
最初の振り付けはプロ仕様。「だめだ、これは難しい...」と、祭りの役員らが長さを半分に、所作も簡単にして、誰でも気軽に覚えられるような基本動作にした。おかげで素人衆でも好き勝手なアレンジができるようになった。
若者たちはTシャツ姿で最新のリズムとダンスの要素を加え、中高年は浴衣で伝統の所作をアピールする。
8回目のころから高校生らの参加が目立ち始めた。これに市内中心部の柳町中学、西部中学らの生徒が加わり、町内連には小学生の参加が定着した。ボランティア活動に取り組んでいた柳町中学のあるクラスでは、参加をクラスで決議。若い教師が支援した。中高年になっての同級会では、びんずるの思い出話で盛り上がる。
祭りは、善光寺の法灯から祭火をいただき、門前の大火釜(かがり火)点火で始まる。灯走衆が分火して、参道に連なる火釜にリレー点火するのは、オリンピック聖火にちなむ。
長野びんずるが全国の夏祭りの模範になったのは、関係者が国内外の有名な祭りを見て、学び、あらゆる要素を貪欲に取り入れたことにある。リオ(ブラジル)のサンバ・カーニバル、東北の三大夏祭り、徳島の阿波踊り、浅草の三社祭などだ。
「市民総和楽」を合言葉に、長野びんずるは知恵と工夫を重ねた。全国の有名祭りでは、プロの踊り手が表舞台に立つことが多いが、「一部の人の占有にはさせない。あくまでも素人が楽しむみんなの祭り」という方針を貫いている。阿波踊りのような絶妙な踊り手は不要なのだ。
夏祭りは炎天の地べたをはう庶民の恨み、つらさを一瞬でも散らすものだ。企業単位の連が目立つのも、勤め人が多くなった時代の反映だ。「普段報われることが少ないサラリーマンやOLの『(恨=はん)』が爆発する一晩です」。ある常連さんの言葉だ。
(2014年6月7日号掲載)
=写真=様々なスタイルでみんなで楽しむ「長野びんずる」