
善光寺の阿弥陀さんと聖徳太子が文をやりとりしていた。証拠の宝箱「善光寺如来御書箱」は、奈良・法隆寺の宝物の中でも飛びきりのものだ。
東京と大阪のデパートで1985(昭和60)年、「昭和の大修理」完成記念で「法隆寺展、昭和資材帳への道」が開かれた。戦前戦後の大規模な調査成果を示す内容だった。
明治から大正時代に計画され、伽藍(がらん)補修工事着工から約50年。当時の文部省をはじめ、奈良国立博物館が主導した国家事業の報告だったといえる。教科書でなじみ深い仏像群や玉虫厨子など200点余。ほとんどが国宝、重要文化財級である。
注目していた善光寺如来御書箱は見事な工芸品だった。だが、その常識を超えた由緒説明に、首をかしげる人も多かった。
「聖徳太子は39歳の時、父・用明天皇の菩提を弔う念仏を7日7晩行い結願、その功徳を証明するため、部下の阿部臣(あべのおみ)に御書を託し、信州・善光寺に遣わした」
「本堂の御帳(みちょう)に差し出すと、(如来のおわす)厨子がさっと開いて取り込まれ、錦張りの返書が出された。その御書はその後、有無と内容は確認されたことはなく、現在では4重の箱に秘蔵されている」
これが法隆寺の公式見解だ。
一番大きい外の箱の長さは70センチ近く、横幅は36センチ、高さは27センチ。4つのうち外箱の2つは徳川綱吉の生母・桂昌院の寄進だが、内箱や錦袋は飛鳥時代製というレアもの。やはり、ただの宝物ではない。
しかし、阿弥陀さんと聖徳太子が交換したという文の内容は、歴史書や研究書に明記、記録されている。
「私(聖徳太子)は衆生救済のため、日夜、仏法の普及に努めています。どうか阿弥陀さまのご支援を願います」
「そうか、御苦労なことだ。私(阿弥陀仏)も全身全霊で、そなたの力添えになるであろう」
1872(明治5)年8月、文部省係員の手で一度開封された。信仰の禁を破ったのは、国家神道推進の政策だ。明治政府は、仏法より神道で近代化を目指していた。
最古の歴史書・日本書紀にあるように、インドが発祥で、アジア大陸を迷走した三国伝来の仏教は、賛否の両勢力と血みどろの政争を呼んだ。反対派の物部氏に比べ、受容推進派の蘇我氏・聖徳太子郎党は劣勢だった。辺境の山国・信濃に逃れた阿弥陀仏の霊力を頼んだというのが、伝説の背景だ。
善光寺信仰が、京阪地方や西日本各地に根強いのは、飛鳥時代からの由縁だろう。大化の改新を経て、聖徳太子一族は絶滅の悲劇に消えていく。現代になっても聖徳太子は一万円札から消された。
聖徳太子の実存を否定する説もあるが、今日の歴史学は、仏教で日本統治を図った有力な改革派・人物が相当な数に及んだことは否定していない。善光寺仏の霊力譚(たん)は、古代史の避けて通れないポイントだ。
(2014年6月14日号掲載)
=写真=昭和60年の「法隆寺展」で展示された善光寺如来御書箱