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060 大島民郎 ~営々と耕す農民に共感し~

高原のいづこより来て打つ田かも 大島民郎

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 JR小海線の小諸駅をたって約2時間、野辺山駅で降りた。駅前広場には「JR最高駅 野辺山 標高一、三四五米六七」の標識が立つ=写真下。

 すぐ目の前の銀河公園へ向かった。ちょっとした高台にベンチもあり、周囲を見渡すことができる。あらためて広々した野辺山高原の景色に見とれた。

 大きく弧を描きながら南北を貫くのは国道141号、かつての佐久甲州街道だ。今は高原野菜の代表的な産地らしく「サラダ街道」と名付けられ、行き交う大型トラックが、消費地との間を結ぶ大動脈になっている。

 ここまでの途中、列車の窓からは、レタス畑だろうか。マルチシートが、あちこち一面に敷き詰められ、まぶしく日差しを反射していた。地温を高めたり雑草を防いだりするのに役立つ。

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 時をさかのぼって1952(昭和27)年5月、東京生まれで奈良市在住の俳人、大島民郎は野辺山周辺へ吟行にやってきた。佐久の医師で俳人、相馬遷子ら「高原派」と呼ばれる仲間が同行している。標高1000メートルを超す高冷地にも、遅い春が訪れ、農作業が再開される時季である。

 このころの野辺山高原はまだ、多くが山林や草地のままの原野だった。人っ子一人いない茫漠たる大地の一角に、ぽつんと小さな田が一枚、田植えに備えて耕されつつある。

 いったい誰が、どこから来て、こんなところで...。見回しても人影はない。ただそこに、土を起こす農民の、いじらしいまでの心情を感じ取り、気持ちの温まるのを覚えたのだろう。その強い共感が、この一句を大島の代表作としてとどめたのだった。

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 1986(昭和61)年3月発行の「南牧村誌」によると、22(大正11)年、野辺山・板橋の農業、井出沢伊助が、長年の農家の悲願だった水稲の収穫に成功した。収量そのものは多くないものの、寒冷地農業に多大な反響をもたらす。農林省も研究に乗り出し、耐寒性の品種開発へ道筋が付けられていった。

 そうした歩みを踏まえれば、もともと水田には不向きの高冷地ではあっても、昭和20年代に大島が偶然、春耕の手の入った田を見かけたのもうなずける。

 いやむしろ、困難なところで困難に挑む開拓者精神が、やがては大根や白菜、キャベツ、レタスなど高原野菜の一大産地を切り開いていったのだ。

 小諸を出るころには八ケ岳の峰々が、春がすみの中にぼんやりと映った。野辺山駅近くからは、眼前に赤岳(2899メートル)も横岳(2829メートル)もそそり立つ。山裾に向かい、きれいに耕された畑地が延々と広がる。

 巨大なタイヤのトラクターが、他を圧するかのように通り過ぎていった。いづこより、いづこへ、現代の野辺山風景である。
(2014年6月7日号掲載)

〔高原俳句〕昭和20年代半ば、若手の堀口星眠、大島民郎、相馬遷子らが軽井沢や野辺山などを舞台に句作に励み、高原派と称された。共著「自然讃歌」がある。

=写真=八ケ岳の麓に広がる耕地
 
愛と感動の信濃路詩紀行